初等教育は成功し、高等教育は成功したって本当?
アメリカは、初等教育に失敗し高等教育に成功したと言われる。
日本は、初等教育に成功し、高等教育に失敗したと言われる。
このことは、本当に正しい話なのだろうか。
例えばである、アメリカで10人が教育を受けたとする。この内1人しか初等教育を理解していないとする。この10人の内理解をした1人を含む5人が中等教育を受け、その5人の内、初等教育を理解できた1人が高等教育を受けたとする。
とすると下記の関係が成り立つ。
1/10 → 1/5 → 1/1 (1)
この関係式から、アメリカは確かに初等教育を失敗し、高等教育に成功したと言える。
これを日本に当てはめてみる。
日本は初等教育に成功したと言えるから初等教育を理解した人は6人としてみると
6/10 → 5/5 → 1/1 (2)
とすると、本来は日本は初等教育に成功し、高等教育にも成功したと言えるのだが、こうなっていないことは、日本は常に理解していない人が中等・高等教育へと進むのならば
6/10 → 1/5 → 0/1 (3)
となり、日本は確かに初等教育に成功し、高等教育に失敗したと言える。
しかしながら、(3)の関係式が成り立つことなど基本的にはありえないのである。
日本の教育においてあり得るケースは、下記の関係式しかないのである。
0/10 → 0/5 → 0/1 (4)
日本の教育に関しては、本来の姿は、初等教育に失敗し、高等教育も失敗したと見るのが正しい日本の教育の姿ではないだろうか。
これを裏付るのは、企業で製品紹介等で使用されるパワーポイントを見ると、日本は本当に初等教育に失敗したことが良く分かるのである。
製品の機能ブロック図の中に本来は左から右に流れる図式が右から左に流れているのである。
本来は
1 + 1 = 2 (5)
と流れるのだが
2 = 1 + 1 (6)
と流れる、機能ブロック図のなんと多いことか。これは小学校1年生の早い段階で学ぶ内容である。
本来は(5)式の様に書くべきものが(6)式の様に書かれているのである。
本当にこれで、高等教育機関を卒業したのかと思えるほどである。
この機能ブロック図を書いた人は実は小学校1年の1学期の早い段階で初等教育に別れを告げたのである。
また、最近話題になった論理的思考力であるが、論理的思考力とは大体小学校5年程度の内容を理解できていれば、問題のない課題である。
そもそも、論理的思考力を成立する話は小難しい話ではないのである。
まず、小学校1年から2年の段階で、国語と理科をいかにきちんと理解したかである。
そこで身に付ける能力が観察力と文脈力である。
小学校の3年から5年にかけて、算数の集合と三角形の合同と相似条件・空間図形の認識、理科で塩の飽和実験で身につけておけば、論理的思考は可能と言うことになる。
まず最初に身に付ける、文脈力と観察力であるが、言うまでもないが、文脈力と観察力はセットである。どちらか欠けても両方存在しないことになる。
小学校低学年の国語の文章は起承転結のすっきりした文章が採用されている。一文節一文節に意味のある文章が書いてあるのである。そして算数の文章題は一文一文に意味があるように書いてある。
国語の文章題でこの文章全体の意味はと言う問題で失敗する子は、同時に算数の文章題で失敗する。
だからと言ってこの子は、計算問題や国語でこの部分は何を示しているのかという問いで失敗しない。なぜならこの子は文章は読んでいるが、理解していないだけである。
よく教師や親が子供に対して「読んだのか」と言う怒り方をするが、本来的にはこの怒り方は間違いである。なぜならばこの子はその文章を読んでいるのである。しかしながら理解していないのである。
この怒り方は子供対してあまりにも短絡的な注意の仕方である。
世の中において読むことと理解することは全く意味の違うことである。
例えば俗に言うR25読者によく読む新聞は「日経新聞」、よく見るテレビ番組は「ワールド・ビジネス・サテライト」と言い。では今日の新聞記事で気になった記事はと聞くと答ええられず、テレビで気に入っているコーナーはと聞くと答えられないということを本で読んだが、このR25読者の状態と同じなのである。新聞は読んでいるけど理解できず、テレビも見ているけど理解できない状態になっている。まあそもそもR25は出来るビジネスマンにあこがれる決して出来ないビジネスマン向け雑誌である。
このR25の読者と教師や親に「読んだのか」と怒られる子供とは同じ状況下にある。
まず理解しなければならないことは読むことと理解すると言う行為は全く別物であると言う認識が重要である。
文章を読んだだけでは理解は出来ないこの文章を観察することである。ここで大切なことはどこなのかを発見する力である。これは理科の授業で葉っぱを観察し、この葉とこの葉の違いはどこにあるかを見つける力と同様の能力である。
それは算数の文章題も同様の力である。文章題の中にいろいるな点を発見し、それを一つの式に置き換えるのである。
どちらが玉子でどちらが鶏かは不明である。このようなものはおおよそ”フロッグ・アンド・エッグ・セオリー”である。
塩の飽和実験とは定量分析と定性分析の基礎である。
三角形の合同と相似条件とは証明(論理は証明されなければならない)の基礎であると同時に多くの分析に必要な行為は”あるものがあるものとの関係”である。それが似ているのか、一緒なのか、全く違うものなのかを仕分ける基礎である。
集合は定性・定量で仕分けられたものが似ている、似ていない、一緒という関係を集める作業になる。
空間認識は、最後にそれをどう配置していく作業である。
この空間認識の問題から起こるのが関東地方の有名な渋滞エリアである海老名バス停付近の渋滞である。このバス停を境にして緩やかな下り坂と緩やかな上り坂にある。この上り坂と下り坂の違いが認識できできず起こる渋滞である。
多くのドライバーに空間認識に問題があるため発生する渋滞である。
また、東京都内の首都高の渋滞の原因も図形認識の問題から起こる渋滞である。首都高は乱立するビルの間を走るため、連続するコーナーの集合体である。本来はこの道を走るためには、コーナーの手前では外側を走りコーナーの中心部では内側を走り最後にコーナーの外側に抜けて走ると言う、アウト・イン・アウトで走行するべきであるのに対して、首都高を走る大半の車はコーナーのど真ん中に向かって突っ込んでいく、この為、ドライババーはコーナーに対して急激にハンドルを切る必要性が出て行く、この結果、車は外側へ行こうとする。ここでドライバーは必死にブレーキを踏み込み。速度は思いっきり減速して行く。単純に言えば80Kmでコーナーに飛び込んだ車は40Km以下の速度でコーナーを抜けて行くのである。コーナーの度にキューブレーキを踏んでいるのである。これで渋滞にならないほうがおかしいのである。
これは、首都高を走る多くのドライバーに2点間を最短に結ぶという算数の基礎的課題を理解できず、そして当然の結果ベクトルとニュートン物理学の基礎的問題に対処できずに発生する渋滞である。
この海老名バス停と首都高の渋滞の最大の原因は車の量もあるが、最大の問題は日本の初等教育の失敗に原因が存在する渋滞である。
日本の初等教育は、この文脈力と観察力を生徒に一切理解させず、大半の生徒を小学校1年から2年の段階で切り捨て、そして最後にその後に重要な小道具となる三角形の合同・相似条件や集合・図形認識・塩の飽和実験で最後の生徒を切り捨て、次の学年に放り込むのである。
では、日本の学校教育が行っている課題とは何かといえば猿か犬の調教である。
練度の低い調教ではまずまずの成果は出すが、高度の調教では失敗している、これがある意味、日本の教育の問題点である。
この解決策は一つしかないのである。日本は教育の護送船団方式を捨てるべきである。この護送船団といっても本来の護送船団と違い、日本の護送船団は早い船を遅い船に変えて、遅い船は自沈させ、最後はもともと早い船も自沈させるという全滅作戦である。
これは、日本が行ってきた金融行政もこの同様の結果をたどったのである。


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