無料ブログはココログ

« 「太平洋戦争」は無謀なせんそうだったのか ジェームズ・B・ウッド著 | トップページ | 政治主導から官主導 »

2010年5月 9日 (日)

「失敗の本質」がダメな理由

 初めに断わっておくが、散文的になっている。

 この「失敗の本質」が名著と言われる理由は、戦後60年たった今も、日本人は日中戦争から太平洋戦争の指導を行った人々と同程度かそれより遥かに劣る能力しか有していない人々が、戦前より遥かに増え、もし、戦後の日本人が太平洋戦争を行えばより酷い敗戦を迎える事になる事を証明する事にしかならない。
 例えば、社民党党首福島瑞穂党首の発言と東条英機の相違はどこにあるのかである。性別以外は全く同じ思考力しか存在しない。これは社民党の前党首土井たか子氏も何ら変化する事はない。東条的事を起こさない為の方法が東条の亡霊を呼び出すのであれば、社民党の全議員と党員・支持者達は広島の原爆ドームにある碑文“過ちを繰り返しません”という碑文に頭をかち割るべきである。
 そして、日本の不況は、戦前の日本陸海軍は世界一と言い、何ら他国の状況を調べもせず宗教の様に信じ込んだ結果であるし、プラザ合意により、世界は人・モノ・カネが自由に動くようになった結果、それまで1ドル240円体制から100円前後になりながらその変化を一切無視した連合幹部や財界・官界・政界・学界の人々の不作為(比較優位を理解していれば)か、無能(クラウゼヴィッツを勉強しながら一切理解できなかった戦前の陸海軍幹部達)かの何れかである。
 ある意味、日本は戦前より愚かになった。
 これは中国に関して、戦前の知識人は化外と化内の違いを理解できる知識人は存在したが、陸軍内には石原位しか存在しなかったが、戦後の人々は、この違いを理解できる人が一人も存在しなくなった。
 マスコミは、戦前も戦後も官僚の走狗でしかすぎない。
 戦前の陸軍が振りかざした統帥権とは、現在で言えば許認可権でしか過ぎない。
 そして、財務省の官僚は、戦艦大和をバカ査定と呼んだが、日本の戦後は、戦艦大和(鉄鋼と造船・巨大プロジェクトの運営ノウハウ)とゼロ戦(新幹線・自動車)を開発した税収で過ごしたに過ぎないにも関わらず、バカ査定と呼ぶ様な無能官僚と無能経済学者と無能ジャーナリストしか存在しない。
 この意味でも、戦後は戦前に劣る人々を多数輩出してきた。
 そして無能な人々が書き、無能な人々が絶賛し、無能な人々が読むという無能の無限連鎖というより、無能の乗数効果を生んだ。

 この「失敗の本質(以下能無しの本質)」が、世の中では名著と言われているが、実際は史上類例無き無能な著作で、この書籍は百害あって一利のない書籍である。
 それは、時代劇の織田信長や平清盛の時代と違い資本主義成立以降に発生した出来事は的確な戦略(物語)を作れているかいないかである。
 時代劇の織田信長(能無しの本質の読者が想定する信長)は、それぞれの戦が分断した戦と思考しているが、現実の信長は天下布武のストーリーを作りながら天下を実現した、日露戦争の日本政府は戦いが始まる前に金子賢太郎をアメリカに派遣しルーズベルトによる日露戦争終結の会議の斡旋交渉を開始している。
 近代戦の本質は、全体が一つの物語となっているのに対して、この能無しの本質では、太平洋戦争を短編集の様に取り扱っている。
 ある作戦は、次の作戦の準備である。故に作戦実行に対しては、戦果の有無ではなく、戦略目標若しくは戦術目標の完遂が求められる。故に戦果が上がった作戦でも戦略目標や戦術目標が失敗した作戦は失敗した作戦に過ぎない。
 「能無しの本質」で成功と論じた真珠湾は失敗した作戦(石油備蓄基地の破壊:戦略目標 起動艦隊の殲滅:戦術目標)であり、沖縄戦は成功した作戦(敵兵力の本土上陸を遅らせる目的は達成された、沖縄県民の犠牲の責任は現地部隊に一切なく全て大本営にあり、沖縄県民の犠牲から失敗と論じるのは知的障害な思考である)である。
 即ち、太平洋戦争とは、真珠湾の米軍基地の無力化を成し遂げた後、絶対国防圏を確保し防戦に勤めるという方策から関係のない作戦は成功したとしてもそれは兵力分散の愚を行った作戦故に失敗した作戦である。故にガダルカナルやインパールはこの範囲を超えた戦いであり、補給が成功したとしても百戦百敗した戦場である。補給が上手くいけば成功したというのなら、日露戦争における旅順攻略作戦は、児玉が出てこなくても伊地知の作戦で成功したという意味でしかない。
 そもそもインパール作戦を成功させて何の意味がある作戦なのかである。他の書籍には、牟田口がインド侵攻を考えていたと言われているが、敗戦を防ぐため戦略・戦術上の要地を確保しなければならない時期にインド侵攻作戦などはキチガイの戯言にしか過ぎない。当時の日本陸軍の大本営はキチガイ集団としか言えない事を数多くを行っている。
 例えば、米軍が全ての島々を一つづご丁寧に叩くと思考し、太平洋の小島に兵力を配置したりしたのだが、正常な人の戦略・戦術は基本的に要地に人員を配置する。
 まるで全共闘世代の人々と何ら変わることのない思考である(このゴミ本の作者等は全共闘世代である)。
 この太平洋戦争の物語の失敗は、その後戦後の日本企業も同じような失敗を多数繰り返しているが、ストリートしては吉野家の倒産と太平洋戦争敗戦のストーリーは非常に類似した失敗であり、セブンイレブンの出店方式などは日本陸海軍の失敗の愚を学んだ様な出来事であるが、「能無しの本質」の著者等や愛読者では理解不可能な話である。
 「能無しの本質」の愛読者達は、能無し故戦前の陸海軍が行った失敗点と全く同じ過ちしか犯さないのである。

 最大の理由は、この著者等が失敗と思考している点を改善しても、陸軍作戦は失敗した作戦である点にあり、まず誤った失敗点を見ている点にある。
 これを現代に例えるとアメリカは、ベトナム戦争の敗戦原因を陸上戦闘に見て、この失敗を解決する手段としてRMAという改善策を出したが、そのRMAを試している戦場であるイラク・アフガニスタンの戦場において、ベトナムと全く同じ過ちを繰り返しているのは、間違った失敗点を直そうとしているからである。
 このゴミ本も同じく誤った失敗点を取り上げ、日本国民に誤った思考を流布して自己の無能さを日本国民に浸透させようとした悪辣さが出ている書籍である。
 また、この著者等が再度「戦略の本質」というより悪辣な書籍を刊行し、日本国民に自己の徹頭徹尾の無能さを流布し、日本国民を世界史上最も無能な国民に教育しようとしている点にある。
 より悪辣な書籍な「戦略の本質」という勝った戦場を取り上げるというが、古来より「敗戦は必然、戦勝は偶然」と言われているのは、「敗者は戦勝を秘し、勝者は敗戦を秘す」と言われるように、勝った戦場にも敗戦理由は存在する。しかし、勝った戦場にも負けた理由は存在し、我々は勝った側の敗戦の理由を発見するのは困難である、しかし、負けた戦場には勝った理由が転がっており、それが負けた戦場から多くの事を学べる事になるが、勝った戦場からは学ぶモノを発見するのは殆ど不可能な作業である。
 故に、古来より「賢者は愚者の過去を知る、愚者は愚者の過去しから知らない」と言われるのである。
 トヨタ自動車は、トヨタ式生産方式という方式を確立し、世界的自動車メーカーになったが、多くの日本企業は、このトヨタ式生産方式を真似たが上手くいかず、トヨタ関連で大野耐一氏の弟子達をコンサルタントとして雇い自らの誤ったトヨタ式生産方式の改善に勤しんでいる。これに対してアメリカは太平洋戦争に勝った総合力でトヨタ式生産方式を解析し遥かにトヨタ自動車以外が理解した誤ったトヨタ式生産方式より遥かに確かなものにした点と、このゴミ本はある意味、日本の企業が真似た謝ったトヨタ式生産方式の類似点が存在する。
 間違った失敗点は百害あって一利なく、誤った勝ちパターン程外多く益なしとしたモノはなく、この著者等の書いた「失敗の本質」と「戦略の本質」の2作は世界史上最悪の書物であり、日本に害をなしたという点でいえば「ジャパン・アズ・ナンバー1」と害の双璧をなす書籍である。
 
 名著と思考されている「失敗の本質」本当はどうしようもないダメ本である理由は、太平洋戦争は総力戦である。
 これに対して、著者らは太平洋戦争中の日本陸海軍同様ジョミニの戦略論に基づいた研究を行っていることが最大のダメな理由である。
 海軍はマハン戦略の申し子であるが、マハン自身はジョミニの範疇に入る人で、マハンをより理解する為に、海軍は日本で初めて陸軍戦略・戦術論であるジョミニを訳した。
 世界の戦争は、ある意味ナポレオン戦争以前と以降に分かれる。
 ナポレオン自身は、ナポレオン以前に属するし、ジョミニもナポレオン戦争以降にでた本であるが、ジョミニはフランス人である為、ナポレオン戦争を参考にして著述したのに違い、クラウゼヴィッツはドイツ人であるため、対ナポレオン戦争の様な戦争に勝つために生まれたという違いが出てくる。
 ジョミニは、ナポレオン戦争以前の様に一つの大会戦が戦争全てを占めている時代の思考であり、戦争自体が短編小説の様なものであるのに対して、対ナポレオン戦争に勝つには、戦争を一つの長編小説の様に思考し、ある会戦は次の会戦の為に行われる戦争である。
 太平洋戦争を一つの長編小説と思考すると
1、 真珠湾作戦→戦略目標;石油備蓄設備の破壊 戦術目標:起動艦隊の破壊
2、 ミッドウェイ→真珠湾において戦略・戦術目標に対する作戦で失敗した為、再度戦術目標の攻略。
3、 ガダルカナル→本来は絶対国防圏を確保しなければならないのだが、トチ狂いニューギニア・オーストラリア侵攻作戦を行おうとした。
4、 インパール→インド侵攻作戦
5、 レイテ→絶対国防圏の最終ライン
6、 沖縄戦→本土上陸作戦に対する時間稼ぎ

 ゴミ本では、ノモハンがあるが、ノモハンはソ満国境ラインが未確定であったが、服部・辻コンビは、ソ連軍をなめ切っており、日本陸軍がちょっと出てくればソ連はすぐに引くので簡単に片付くと思考して行った作戦である。当時の陸軍参謀本部内ではソ連の的確な戦力を報告すると“恐ソ病(ソ連を恐れている)”というレッテルを張られ、ソ連など日本陸軍が出てくればお茶の子さいさいと考えなければいけなかった。これはアメリカに対しても同じで、日本陸軍が出てくればアメリカ兵は裸足で逃げ出すという様な思考に支配されていた。この様な考えをより強く持っていたのが東条や辻・服部・牟田口等であり、石原の様に日本は日中戦争などせず、20年位の時間をかけてアメリカと対抗できる工業力を見に付けるまで戦争自体を控え、体力がついた1960年代にアメリカと全面戦争をすれば良いと考えていた。戦後の混乱期自体を除けば1970年の終わりから1980年全般程度の工業力という事になる。
 この為、石原は宮崎正義等を使い日本株式会社構想を作り出した。この点に関しては野口悠紀夫教授や小林英夫教授の著作が参考になる。
 即ち、東条・辻・服部・牟田口やゴミ本の著者等や愛読者等がジョミニの戦略思想に犯されているのに対して、石原はクラウゼヴィッツの思想の申し子と言える。
 現在でもクラウゼヴィッツの知名度はエベレストの様に高いが、理解度はマリアナ海溝の底より深いレベルであり、逆にジョミニは知名度はマリアナ海溝の底以下の知名度(存在しない)が認知度はエベレストより遥かに高いレベルにある。

この違いは、平時から戦争に対してあらゆるモノを動員し戦時に戦争に勝つ事を目的にすると言えば簡単な意味であるが、国家がその総力を挙げて戦争に勝つという目的をなすのと、個人が武勇を奮い個人の名の誇りが戦場の名の誇りになる戦いの違いであり、ナポレオン戦争以前の戦い(当然ナポレオン自身の戦いも含まれる)は、それぞれの戦いには個別の目的で行われており、それぞれの戦いに勝つ事が目的である。
 しかし、ナポレオン戦争以降の戦争(盧溝橋事件から太平洋戦争敗戦に至るまでの全日本陸軍の戦いは除く)は、敵国を屈服させる事を目的としている為、個別の個人の勇名を必要としない。
 日本の戦場で言えば、元寇の役における鎌倉武士と元の兵士の違いといったところである。元寇の役までは、名乗り名を上げて個人の勇名さを競っていたが、こんな戦いをしていたら元には勝てないので個人の勇名さを競わない戦いに徐々に変わっていった。
 即ち、戦場では一人の那須与一よりも、無名の10名の兵士なのである。
 そして戦場の兵士は、あたかも工場労働者の勤勉さと同じ勤勉さが求められる戦いであり、個人の勇名は、戦場全体の無意味な行為にしかならない。
 工場で不良が発生する理由は、前近代の工場では個々人の職人の技量によったが、現在の工場では、個々人の技量ではなく、設計者の過ちや計画担当者の無計画さや工場長の無無謀な生産計画であったりし、工場労働者は、ごく平均的能力しか求められない。
 日本の戦場では、戦国時代には消えてなくなった個人的勇猛さを、第一世界大戦が始まる前まで持っていて、高学歴の人間がこぞって志願兵として戦場に出てきたが、個人的勇猛さを発揮できるような戦場は、第一次世界大戦のどの戦場にもなく、彼らが活躍できる第一次世界大戦の戦場は工場や参謀本部の分厚コンクリートの中で、平時と何ら変わらない事務労働にしか能力を発揮できる戦場は存在しなくなった。
 この第一次世界大戦は、本国の工場も戦場の一部と見なされ攻撃目標になり(戦前の東京市は、全域に小さい町工場が点在していた為、第一次世界大戦の戦訓から言えば、東京市は全域が工業地帯であるため、敵攻撃目標になるのは軍事常識であり、これだけ広範囲に工業地帯が広がっていれば、どんな防空体制を作っても守る事は不可能なので、本来ならば工場を一か所に集めるべきであった)、また生産量を上げる為にはサマータイム制度を引き(サマータイム制度は第一次世界大戦中生産量の増強目的で誕生した)、規格を統一し(日本がJIS規格を作り規格の統一したのは戦後米軍の指導による、このゴミ本の著者の一人が大和ミュージアムの館長のゼロ戦のタンクの位置の相違というオタク話に関心していたが、ネジの規格が違う為、そのまま同じものを作っても全く別の戦闘機)、同一設計品をどれだけ短期間に大量に製造できるかが、第一次世界大戦以降の総力戦というクラウゼヴィッツの戦略論の支配する戦場での勝利の法則であり、全体の戦争設計の有無こそが失敗の本質である。
 戦前と戦後の相違で言えば、戦前は資本財を輸入して消費財を輸出していた、それに対して戦後は資本財を輸出するようになった。
 この点に関して、日米独の3カ国の内、米独は資本財を輸出していた。第一次世界大戦で言えば、英独仏の3カ国は資本財を輸出していた国である。ロシアは第一次世界大戦・第二次世界大戦共に資本財を輸入していた国である。
 また、ナポレオン戦争以前にはというより、近代資本主義成立以前では、その国が資本財を輸出しているとか輸入しているとかは関係がない。ナポレオン戦争以降で第二次世界大戦終結までの期間で資本財を輸入している国で戦争を起こしたのは、日本とロシア(ソ連)位である。戦前素晴らしき日本の工業力とはアメリカ製やドイツ製の機械を並べることであった。
 総力戦とは、その国が資本財を輸出できる国かそうでないかは全く関係がないのである。
 特にナポレオン戦争以前では、そんな事はどうでもよい事であった。

 戦前の日本には、この戦争設計が基本設計を含めて一切存在しないのである。
 太平洋戦争開戦前の話の中心はやるかやらないかしかなく、やるには現在振り分けられる物資をどれだけ取れるかという省庁間の争いに終始し、全体の戦争設計や米国の国内事情などは全て無視した。
 この点を日露戦争時に日本と比較しても全く違うものである。
 もし、このゴミ本の著者等と愛読者の脳みそを全て集めて爪楊枝の先に乗るくらいあれば、日露と比較するというのは、簡単な社会学的手法でもある。
 このゴミ本では、まず著者等が完全無欠の無能故全体の戦争設計が出来ず、個別の戦場の可否しか見ず、成功しても無意味な戦場(ノモハン・ガダルカナル・インパール)を取り上げたり、ある意味成功した作戦と言える戦場(沖縄戦)を失敗したりしているのは、彼らがバカでも理解できるジョミニ風(あくまでも風でしかない)で見た所にある。
 このゴミ本の愛読者に出来るのは、東条や辻や服部や牟田口と殆ど変化のない行為しか出来ないであろう。

 この点が盧溝橋事件以降の陸軍首脳部の様な、超人的肉体(1か月も何も飲まず食わず、寝ず、マラリアにもびくともせず、弾丸を跳ね返す肉体)を有さなければ成立しない作戦計画などは論外な作戦である。
 現代においても、このゴミ本の愛読者達は、陸軍首脳と同じように超人的肉体を有さなければ成立しない計画を立てて喜ぶのである。
 このゴミ本の愛読者として有名な経営者は、何年も愛読書にあげているが、最近東洋経済で古典の愛読書としてあげたのはどれもが、教養のある財界人に無教養とバカにされないレベルの本しか上がっていないし、もし、彼に向学心と探求心が存在すれば、陸軍参謀本部の参謀の有していた手帳には孫子の要約本が印刷されていたという話から孫子に興味を持ち、孫子やその解説書を読み、孫子そのものや幕末の志士の共通言語であった十八史略を愛読書にあげるのだが、あげていないのは彼には向学心も探求心も存在しない事を証明しているだけである。
 このゴミ本の愛読者のレベルが想像出来るものである。
 向学心も探求心も存在しないレベルの短期的利益を望み、結果的に長期的は滅んでしまう人がこの愛読者の基本層をなしていると考えられる。
 
 総力戦においては、孫子かクラウゼヴィッツ以外適用は不可能であるのに、著者等は頭が悪い為、ジョミニ風戦略論をなんとか理解できる程度であるため、総力戦としての失敗を一切理解できず作品を書き、読者も頭が悪い為、ジョミニ風をボチボチというレベルである。
 故に、このダメ本の著者等や愛読者にとって、太平洋戦争敗戦の理由は、あくまでも兵士が頑張らないから負けたと思考しているに過ぎず、実際このダメ本の著者の一人は「社員が働かないから赤字なんだ!」と喚いた社長(現相談役)の会社で社外取締役を勤め、現在この会社はお家騒動の真っ最中であるが、この著者は沈黙を守っている。
 また、現在の日本においても総力戦というものの理解力が非常に低いため、サマータイム制度に関して、変な議論を進めている。
 欧米がサマータイム制度を引いたのは第一次世界大戦中である。
 このダメ本の愛読者達は、サマータイム制度を引くと余暇時間が増えると言っているが、欧米人にとって第一次世界大戦とは、暇つぶしの為に発生した戦争であるとでも思考していないと、余暇時間が増えるなどという世迷いごとを言うはずもない。
 即ち、この著作は、その程度のバカが書き、バカが愛読者であるという作品に過ぎず、本来、この著作の価値は、それまでは旧陸海軍軍人や自衛隊出身者が書いていた戦前の戦争に関して、それ以外の人が書いたという価値しかない。
 太平洋戦争は、総力戦という観点から、戦略論として孫子やクラウゼヴィッツを元にし、書かなければ太平洋戦争失敗の本質は一切理解できない。
 太平洋戦争失敗の本質は以下の7点にある。
1、 盧溝橋事件の勃発(陸軍の組織的統治)→太平洋戦争前に陸軍は組織としては崩壊していたと見るべきである。
2、 各工場の規格統一→生産管理学(経済学)教育の充実(現代でも課題)
3、 工業力の拡充(サマータイム制度を初めとする諸制度や宮崎正義の計画した産業政策の実現と工業地帯の確立(戦力不足の原因と東京大空襲の原因)→生産管理学(経済学)教育の充実(現代でも課題)
4、 民主主義における公約の意味(ルーズベルトの3選目公約)→政治学教育の充実(現代でも課題)
5、 外交文書における日付の意味(ハルノート)→法学教育の充実(現代でも課題)
6、 戦艦大和の政治的意味(特に外交における戦艦の意味付け)→国際関係論教育の充実(現代でも課題)
7、 日本海軍の艦隊決戦思想の排除(現代でも財務省の財政均衡論思想は似た思想である)。
これは、日本が南方資源ルートを太平洋戦争の資源ルートに選択した以上、艦隊決戦はそもそも出来ない戦いである。何故ならば、艦隊決戦の戦場と資源ルートが同一の場所にあるなどは基本的あり得ない話である。
 太平洋戦争の失敗と言いながら、日本は戦後それぞれの失敗をそのまま放置したまま来たので、太平洋戦争の課題と言いながら、その殆ど全ては現代の課題でもある。
 そもそもの失敗は、小村寿太郎による米鉄道王ハリマンに対する南満州鉄道売却阻止である。
 そして、総力戦とは、ストーリーのある戦争である。故に、全体の戦争設計が出来ないと戦争に勝つことは出来ない。
 この点が、日露戦争より前の戦争との違いである。
 それまでの戦争にはストーリーがなく、個別開戦の勝敗の蓄積が戦争全体の勝利につながった戦争であり、特にナポレオン戦争とは、個別の戦いの蓄積に過ぎず、戦争設計が存在しない戦争である。
 故にジョミニは、小さい戦闘を戦術とし、大きな戦闘を戦略と規定した。戦略と戦術の違いは戦場の大小が決定した。故にこのバカ本の著者等は「戦略の本質」という書籍では大規模戦闘を書いた。
 経営論における戦略論の本質もこのジョミニ風であり、ポッターや大前研一の「企業参謀」もこの範疇に入る。但し現在の大前氏はジョミニ風からクラウゼヴィッツ風に転じている様である(大前氏は学ぶべき古典に孫子を上げているのはその表れであると言える)。
 これに対して孫子やクラウゼヴィッツは戦闘の大小を問わず戦術とし、戦争全体を戦略と規定した。
 この違いは何から出てくるのかと言えば、簡単な話で、世の中には戦術家と戦略家の2種が存在するが、共に戦術・戦略を立てるが、用語それ自体は、戦略家も戦術家も同一であるが、中身はまるで違うものになる。
 戦術家にとっては戦略と戦術と分かれるものも、戦略家にとっては戦術という事になる。
 これは、ナポレオン戦争以前の欧州には存在しない観念であると言って良い。それまでの戦争とは大会戦を示し、大会戦の勝者が覇者となったが、ナポレオン戦争以降では、大会戦の勝者が覇者を示すとは限らなくなった。
 大会戦に勝利しても、それが覇者の証ではなく、一つの戦場の勝利に過ぎない。
 これは、中国史で言えば、春秋戦国時代や三国志の時代と似た状況になった為と言える。現代もある意味で春秋戦国時代や三国志と類似した時代である。
 ナポレオン戦争以前の戦争では、欧州王室は全て婚姻関係を結んでおり、全てが親戚同士の争いと言って良い戦いであった。ナポレオン自身もオーストリア帝国のハクスブグ家と婚姻関係を結んでいるので、ナポレオン自身もナポレオン戦争以前の人と言ってう良いのかも知れない。
 このナポレオンに関しては、誤った科白として、「戦争の天才」と呼ぶ事にある。
 ナポレオンは「戦術の天才」であるが、「戦略のアホ」や「戦争のアホ」でしかない。
 ナポレオンは、何故エジプト遠征やモスクワ遠征を失敗したのかと言えば、戦略と言われる範疇の失敗でしか過ぎない。
 エジプト遠征では、海軍力を無視し、モスクワ遠征では補給を無視したし、ナポレオン戦争全体に言える事は、ナポレオンに戦争設計が存在しない事にある。
 ナポレオン戦争以降の戦争に関して言えば、普仏戦争・日露戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦などは、戦争設計に優れた方が勝っているのである。
 ゴミ本の著者等や愛読者の共通項は、戦争設計が作れない事にある。
 戦争設計のない戦争に勝利が存在しない事が、ナポレオン戦争以降の共通項である。現在の日本の落ち込みも、国家や企業に基本設計を作れない事にあると言って良く、このゴミ本は、この現在の日本の無能さを証明する書籍に過ぎないのである。
 この様なゴミ本を名著と言えるから日本はダメになったのである。
 
 太平洋戦争の失敗は、当時の日本陸軍において戦略家と言えるのは石原莞爾だけであるが、石原は太平洋戦争前に東条によって予備役に編入されており、太平洋戦争を通じて予備役のままであった、またノモハン時の関東軍参謀長を勤め、ガダルカナル・インパールを通じて参謀本部作戦課長を勤めた服部卓四朗は、満州事変から太平洋戦争を通じて最高の名将は石原であるとしたが、その石原不在の戦争が太平洋戦争という戦争である。
 塩野七生氏は、「亡国の悲劇とは、全ての人々の悲劇ではなく、活用されなかった人々の悲劇である」といったが、この言で言えば、太平洋戦争とは石原にとっては悲劇であるが、東条・服部・辻・牟田口等にとっては、太平洋戦争とは喜劇でしかなく、米英の将官達は「日本軍で一番頭が悪いのは参謀肩章を吊った奴らだ」と言い、「日本軍の対処は簡単だ、彼らは日露戦争の勝ちパターン通りに攻めてくる、我々はそれを予測して兵力を配置すれば目をつむっておいても勝てる」というお笑い戦いが、ノモンハンやガダルカナルやインパールといった作戦である。
 有名な言葉として「兵士の失敗は自分の死で償う、将官の失敗は兵士の死で償う」と言われており、この3作戦は、全て日露戦争の旅順攻略作戦の児玉が来る前の伊地知の作戦のコピー作戦でしかない。故にこの3作戦は、最初から負けを義務付けられた戦いであり、ノモハンには勝ち方(航空機の運用)があったが、ガダルカナル・インパールは行動限界を超えた所での戦いであり、作戦を多少いじっても百戦百敗の戦いであり、作戦そのものより、作戦の決行決定過程自体が失敗の本質であり、バカ本である「失敗の本質」の様に作戦詳細を描くだけで、著者等や愛読者達がバカである事を証明するだけでしかない。
 このバカ本には意味がある。
 世の中において勝ちパターンから学ぶことは出来ないが、バカのバカである理由から多くの事を学ぶ事が出来るので、この本から学べることは、バカが何故バカな思考をして、この本を書いたかという理由と愛読者達が何故バカなのかという理由が学べる書籍である。
 現在、日本が不況を継続している理由も、このバカ本が名著と言われる事が重要な理由である。
 戦後日本は、あらゆる面で戦前の遺産の継承でしかすぎず、その遺産とは宮崎正義の立てた日本株式会社(詳しくは小林英夫氏の著作)と戦艦大和とゼロ戦を作った事にある。
 戦前日本は、クラウゼヴィッツ・孫子を知らずして負けたが、現在日本もクラウゼヴィッツ・孫子を知らずして負けているのである。
 
 ガダルカナルとインパールの2作戦は、戦後餓島や白骨街道の名称で呼ばれている為、著者らや昔NHKで放映した番組でも補給の問題を取り上げているが、ガダルカナルとインパールは例え補給が上手くいったとしても作戦は失敗した作戦である。
 ノモハン・ガダルカナル・インパールの3作戦は、どれも似通った失敗を行っている。
 これは日露戦争における二〇三高地作戦において、児玉源太郎が出てくるまでの第3軍の伊地知が立てた作戦と全く同様の作戦であり、結果的に辻・服部・牟田口の3者は、日露戦争における伊地知と全く同じ過ちを犯したに過ぎない。
 二〇三高地の伊地知の失敗は、補給の失敗ではなく、攻城戦において、長距離砲による要塞への攻撃と同時に地上部隊を突撃させることであり、児玉が二〇三高地で取った作戦は、その後の第一世界大戦において攻城戦において使われ、攻城戦の作戦常識となった。
 故に、3作戦の成功の成否は、二〇三高地における児玉の作戦を何処まで応用可能かによる。
 但し、インパール・ガダルカナルの両作戦を成功させるには、指令部と現地の間にガダルカナルの場合は空母部隊若しくは司令部とガダルカナルの中間の島に飛行場が必要で、インパールの場合は飛行場が必要になる。
 ガダルカナル・インパール共に敵は航空機による補給を実施している為、地上部隊をたたく為には、敵補給路を潰せない限りにおいて作戦そのものが不可能な作戦である。
 例えば、インパールは部下の師団・上司である方面軍は共に作戦の成功の見込みがないと却下した作戦を牟田口がお友達である東条や服部・辻に頼んで実行を願った作戦である。作戦反対理由は、敵補給路が叩けないという理由である。
 また、インパールには戦略上・戦術上全く意味のないタダの消耗戦に過ぎない。「失敗の本質」と称しているが、インパールに勝ったからと言って全く意味が存在しない戦闘行為である。本来は絶対国防圏の確保が戦略上重要な点なのに、行動限界を超えてまで作戦を実行する意味自体が存在しない作戦であり、私が方面軍の指揮官や参謀本部の作戦課の一員であれば、この計画が送られてきた時点で、牟田口を脳に重大なる欠陥が存在するという事で、病院に拘束着を着せて入院させるのだが・・・・。
 インパールに飛ばせる飛行機は一切存在しない作戦であり、ガダルカナルは、ゼロ戦が飛んでいっても現地滞空時間は10分以下という条件の作戦決行である。
 即ち、その条件がそろっても攻城戦においては守る側が孤立したとしても、攻める側は守る側の3倍の兵力が必要と言うのは軍事上の常識である。
 即ち、敵戦力を全滅させても自軍は2倍の損失を出す作戦である。
 故にインパール・ガダルカナルの両作戦は、補給が上手くいったとしても、敵補給路が潰せない以上、ダラダラと攻城戦を行う事になり、敵兵力が1損失するのに自兵力は2損失する事になり、自軍はダラダラと悪戯に兵力を損失するだけの作戦にしかならない作戦である。即ち、児玉が現れる前の第3軍と全く同じ様に悪戯に兵力を損失するだけの作戦でしかなく、作戦を実行した事自体が誤りである作戦である。
 故にガダルカナル・インパール作戦の失敗の本質は、現地に一切存在せず、作戦の実行の過程に失敗の本質が存在する作戦である。現地での作戦詳細をどんなに丁寧に記載してもそれはバカのバカによる無駄な努力にしかならない。
 そもそも絶対国防圏を築かなければならない時に悪戯に兵力の消耗の愚を犯した作戦で、作戦の決定形態ではなく、現地作戦詳細を記載するのは、この著者らが心底無能か、総力戦の意味が全く分からない為、当然孫子やクラウゼヴィッツを理解することは不可能な為、アホでも理解可能なジョミニで太平洋戦争を解析しようとした愚か者達が無能さを発揮しただけの書籍である。
 故に日露戦争で伊地知が犯した過ちのデッドコピー作戦をわざわざ取り上げたり、太平洋戦争前に問題がなかったと書いたりすることが可能なアホ達でしか過ぎない。
 ノモハンの作戦の失敗は、攻城戦において、二〇三高地で児玉が長距離砲を使った様に、日本軍は長距離砲の代わりにソ連軍より優秀だった航空戦力を多用することにより、敵縦深陣地を攻撃すると同時に地上軍を突入させるべき作戦であり、辻・服部が取った行動は旅順攻略において伊地知が失敗した作戦と何ら変化のない失敗である。
 故にノモハン・ガダルカナル・インパールの3作戦は、旅順攻略において伊地知が取った大失敗した作戦を3度同じコピーを行い、そのコピー品質が作戦をたどるごとにコピーの品質が更に悪化した作戦でしか過ぎない。
 またガダルカナル・インパールの両作戦の失敗と思考している補給の失敗は、この両作戦よりも南京攻略の方が補給の失敗した作戦としては最適である。
 何故ならば、南京事件の本質は、補給を一切持たない為発生した問題に過ぎない。
 故に、補給の失敗は南京攻略の方が適切な作戦であると言える。
 この陸軍の補給の失敗の本質は、牟田口(インパール作戦の実行者)が起こした盧溝橋事件から始まる日中戦争全般における問題でもある。
 この源流は、満州事変に遡る話である。
 満州事変は、天皇・政府から奉勅命令は存在しないが、陸軍の総意として行われた作戦であるため、満州事変においては、作戦に必要な長距離砲を本国から送っているのであるが、奉勅命令は出ていない為、基本的に石原・服部征四郎の独断による作戦実行であり、朝鮮にあった部隊指揮官は、勝手に満州に進撃し、朝日新聞を初めとする新聞社に越境将軍と称えられ、3者共に勝手に軍隊を動かしたにも関わらず軍法会議にかからず出世したことが、盧溝橋事件以降の日本陸軍の陸大歩兵科卒業者の習いとなった。
 陸大歩兵科卒業者以外においては、日本でも欧米でも軍法会議にかかり軍籍剥奪の上、死刑である。
 日本おける好例は226事件である。
 226事件は奉勅命令がないのに部隊を動かした事が罪に問われ、軍籍剥奪の上死刑になった事件であるが、張作霖爆殺以降太平洋戦争終結にいたるまでの殆ど全ての作戦は、奉勅命令のない作戦である。
 それでも、まだ盧溝橋事件以前までは陸軍の総意という部分は存在したが、盧溝橋事件以降では、陸軍の総意というものが消え去り、ただ単なる陸大歩兵科卒業者の出世目的で自分勝手に部隊を動かし、この為自国民を名誉の戦死という自国民を何人殺したら出世出来る状態になり、それぞれの部隊指揮官が勝手に部隊を動かした結果、補給作戦など取れる状況ではなくなり、現地調達という方針になったにすぎない。
 この勝手に部隊を動かしたら出世出来る体制を築いた事が陸軍最大の失敗である。
 この失敗は、張作霖爆殺事件において河本大作を直ちに本国に呼び戻し、軍法会議にかけ軍籍剥奪の上死刑という刑罰を与えなかった陸軍の致命的欠陥となり、満州事変においては、服部征四郎や石原莞爾を軍法会議にかけず、昭和天皇が首相だった広田弘毅に対して関係者を処罰するよう指示を与えたにも関わらず、広田は天皇の命令を拒絶し、内閣を総辞職させた、またこの広田は海軍の生みの親と言われる山本権兵衛がおこなった陸海軍大臣の現役制度の廃止を簡単に廃棄させ陸軍暴走の生みの親になった。
 元官僚である佐藤優氏は、官僚の良心とは出世する事であると説いている。即ち陸軍軍官僚の良心とは、政府の命令を完全に無視し、自分で勝手に部隊を動かし、何人自国民を戦死させる事が陸軍官僚の良心である。
 補給無視の現地調達の好例かと言えば、そもそも松井に下った陸軍の命令は上海攻略である。これに対して松井は、上海攻略に成功した余勢をかり南京攻略を勝手に行った。基本的にこれだけで松井は軍法会議にかかり軍籍剥奪の上死刑以外の判断しか出来ない単なる犯罪者に過ぎない。
 日中戦争とは、陸軍の攻撃した地点は、阿片の栽培地や販売地といった阿片がらみの土地ばかり攻撃するという阿片利権獲得を目指したものであり、この阿片利権のおかげで東条英機は現在の貨幣換算で1000億円と言う政治資金を得た。
 即ち、盧溝橋事件以降の日本陸軍の作戦は、陸大歩兵科卒業者の出世と阿片利権を求めた作戦に過ぎない。
 「失敗の本質」という史上まれにみる能無し本を出した著者らは、太平洋戦争前には特に問題はないと記載しているが、現実には陸軍は問題だらけであった。
 また、東京大空襲も陸海軍の不作為による犯罪事件以外の何物でもない。
 第一次世界大戦とは、総力戦の始まりであり、敵工業力の破壊は当然の行為であり、東京市(現在の東京23区内も同じ状態)は、市内に町工場が点在しており、これは東京市全体が工業地帯となり、敵は当然工業地帯である東京市全域における空爆は想定させる事態であり、陸軍のドイツ留学者の中にはこの想定をレポートとして提出した者もいたが、歴代の陸軍首脳は全て無視した結果東京大空襲の被害を生んだのであり、これは不作為以外の何物でもない。
 特に開戦を決定した東条内閣の陸軍大臣・参謀総長は、東京大空襲の真の実行者である。
 この陸軍大臣と参謀総長は東条英機が兼務しているので、本来ならば東京大空襲の被害者達は東条英機の遺族を相手取り損害賠償請求をすべきである。
 これは、BC級戦犯の遺族も本来であれば、遺族年金は東条英機の遺族達が支払うべきものを政府が肩代わりしたに過ぎない。
 何故ならば、捕虜虐待とは、ジュネーブ条約違反という行為であり、アメリカ政府は外務省を通じジュネーブ条約を準拠するかしないかの問い合わせを行った時、外務省はジュネーブ条約を守ると回答しながら兵士達への教育を怠ったり、代わりに東条は捕虜虐待を支持する様な戦陣訓をだした。これは東条によるジュネーブ条約違反の命令書であり、当然BC級戦犯は、東条の不当な命令を守ったため、戦後犯罪者として処罰されており、これは東条英機の個人的犯罪行為であり、東条英機遺族はBC級戦犯に政府が支払った遺族年金は本来であれば東条英機遺族が支払うべきものを肩代わりしたに過ぎない。
 故に政府は、東条英機遺族に対してBC級戦犯の遺族年金全額と東京市破壊と復興にかかった費用の全額を東条英機遺族に請求すべきものである。
 話は元の史上最悪のダメ本「失敗の本質」にもどるが、このダメ本は本来軍事作戦としては成功したと言ってよい沖縄戦を失敗したと論じているのである。
 作戦の成否は、作戦目標の成功の是非である。
 即ち沖縄戦の作戦の可否は、出来るだけ遅らせることであり、この作戦目標は硫黄島の作戦と同様であり、この意味で言えば、沖縄戦は作戦目標自体は成功したと言える。
 失敗点は、沖縄県民の犠牲であるが、これに関しては現地部隊の責任ではなく、大本営陸海軍部の問題であって、現地部隊の問題ではない。
 この歴史上最悪のダメ本「失敗の本質」がガダルカナル・インパール・沖縄戦と本来大本営の失敗に記す作戦を現地部隊の作戦に記すという過ちを犯しているのである。
 即ち、作戦の責任における責任分担の概念が一切出来ず、上級司令部の失敗も現地部隊の責任に記しているのである。
 この著者の一人が、現在社外取締役を務める会社でお家騒動が発生し、経営が上手くいかないのは社員の働きが悪いからだといった人の元で社外取締役が務められるのは、どの様な下手な作戦を上級部門が命令しても、部下は作戦を成功させなければならないという「失敗の本質」という書籍の精神を体現した結果だと言ってよい。
 この著作を名著と言える経営者達も、経営が上手くいかないのは経営者が下手な経営施策を打ったからではなく、部下が働かないからだと思考しているためであると考えられる。
 古典的な言葉では「兵隊の失敗は、兵隊は自分の失敗で償うが、指揮官の失敗は兵士の死体が多数でるだけである」
 この著者らの精神は、ガダルカナル作戦が失敗に終わった時、作戦を立てた辻正信は作戦失敗の理由を「兵士の精神力が弱いからだ」と記載し、東条英機が敗戦時に書いたのは「日本国民がこんなに精神力が弱いとは思わなかった」であり、この作品の著者の一人が社外取締役を務める会社の経営者は「赤字になったのは社員が働かないからだ」といったと新聞・雑誌に書かれているが、この世界史上類例のなきダメ本「失敗の本質」もこれらの人々同じく「精神力が弱いから負けた」と言いたいのであろう。
 即ち、この著者らの思考する失敗の本質とは、「弾丸に当たっても死なない身体を持たず、マラリアにかかっても鼻水一つ洩らさず、1カ月くらい水も食糧もなくても平気であることが失敗の本質としか思考できない。

 最後に付け加えるのならば、このダメ本と同様のダメ本がかわぐちかいじの一連の政治・軍事関係書籍であり、当然同列の荒巻義男も同程度バカ本でしか過ぎない。
 この様なダメ本群がベストセラーになるから、日本はダメになったのである。

 日本陸海軍共に、戦訓を生かすという事が一切出来なかった。ガダルカナルやインパールの作戦の失敗は、補給の失敗というよりも、作戦計画そのものの立案計画の無さが最大の原因であり、ガダルカナル・インパール共に高度差の強い東南アジアでありながら、作戦立案を行った陸大歩兵科を優秀な成績で卒業した、参謀たちは教科書で学んだ日露戦争の戦勝パターンから一切逸脱する事がなかった。
 作戦計画も平地が続く中国大陸での行軍速度をそのまま高低差の激しい東南アジアに当て嵌めて作られており、これでは作戦を立てた段階で失敗は100%約束されている。故に、補給の問題と言いながら実際のところ作戦を立案した段階で失敗は明白である。
 直線で10㎞と言っても平地の10㎞と高低差2000mの10㎞では時間が大幅に違うが、辻にしても牟田口にしても、これを全て平地と同じ様に計画を立てており、行軍自体は無謀な計画であり、補給は神の業以外の事は出来ない。
 故にインパール・ガダルカナルの両作戦が失敗した理由は、補給というよりも、陸軍の装備にドラえもんの“どこでもドア”と“竹コプター”がなく、防備用の仮面ライダーの“変身ベルト”の3種が存在しないことが作戦失敗の本質的理由と言ってよい。

 また、日露戦争の旅順攻略作戦の参謀伊地知と同じように安全なコレヒドールを一歩も動かなかった牟田口は、伊地知の忠実なる弟子と言える。
 自らは絶対安全な地を離れず、自分の危険が迫れば一目散に逃げ出す指揮官の言う事を聞く部下は存在しない。
 故に牟田口が敵物資集結地ディマプール侵攻を命じても部下が言う事を聞かないのは、戦前の日本陸軍では当然の事かも知れない。
 牟田口・辻・服部の親分である東条英機は、懲罰徴兵を多数行った。
 これは、陸軍上層部が戦死を恥ずかしい出来事であり、東条達陸軍上層部にとって靖国神社とはゴミ箱の意味しかないのではないかと考えられ、この様な話を当時の日本国民が知っていれば、日本陸軍は遥か前より完全に崩壊しているのではないかと考えられる。
 牟田口がすべきは、安全な地ではなく、部隊と共にいれば、少しは勝つ可能性が存在したと言える。
 この牟田口・辻・服部・東条等の行動を見ていると自民党の議員や民主党の反小沢と言われる議員や社民党の議員達は、戦前の旧帝国陸軍陸大歩兵科卒業者達の忠実なる弟子と言って良い。

 今でも、戦前の陸軍が行った盧溝橋事件以降の日中戦争並みの中国感(漢民族感)しか有していない。
 米軍の沖縄県外移転が失敗したのは、鳩山政権や歴代自民党政権が、「能無しの本質」
と同様に短編集の様に物事を進めた結果である。
 鳩山政権は、沖縄以外の移転とは佐賀空港を海兵隊基地にする事が同じ意味である事を理解していなかった為失敗したのである。

« 「太平洋戦争」は無謀なせんそうだったのか ジェームズ・B・ウッド著 | トップページ | 政治主導から官主導 »

コメント

http://qawsed.info/art/0qcvvgf
俺の暴れん棒貸してやったら8万くれた!!

散文的というか、書き散らしただけですね。主語と述語もよくわからないです。

よく知られているように太平洋戦争自体はアメリカのオレンジプランに基づいてアメリカのシナリオどおり遂行されました。その基本戦略は強いであろう日本陸軍と中国大陸で戦うことはせず、太平洋の島を飛び石で北に上がってゆくというものでした。そのための上陸作戦を担うのが海兵隊、戦略爆撃を行うのが空軍という役割分担でした。著者の一人である野中郁次郎氏はこの失敗の本質を書いた後で、アメリカ海兵隊について興味を持ち、いくつかの著書を著しています。
また、野中郁次郎氏はナレッジマネジメントの開祖です。アメリカで出版された彼の英語の本は、日本に負けている理由をどうしても理解できないアメリカ人に日本の強み「暗黙知を形式知に変える」をよく理解させ、ナレッジマネジメントがアメリカ中で始まり、日本を追い越す研究や実践を繰り返した結果、アメリカの製造業は現在のようになりました。
その意味で野中氏はノウハウを流出させた日本の国賊といった人もいたようですが・・・
ここで書かれた方の気持ちはある程度わかりますが、「失敗の本質」は戦争論としては読まれていません。戦争を題材にしたビジネス書です。
現状認識、分析、戦略(解決案)立案、戦術(実行計画)立案がきちんとできない、日本企業のの共通の欠陥を見事に表しているため、名著と呼ばれています。
日本中の経営コンサルやロジカルシンキング系の人財開発業界の統一見解と思います。

追伸です
アメリカで出版された本は日本で翻訳されました。題名は「知識創造企業」です。分厚い本ですが日本人には難しい第二章を飛ばして読むのがコツです。
ここで紹介された「SECIモデル」はナレッジマネジメントのフレームワークとして非常に有名で、アメリカ人には受けたのではないかと思います。
私は企業の異業種交流勉強会で10年前にご本人の講演を直接聞いて、話もしましたが、現在でも技術経営(MOT)や人財開発(HRD)の業界で第一人者の一人として活躍しているようです。

はしがきと序章くらい読んでから批判しろよ。

というか『失敗の本質』を読んでいるかどうかさえも怪しいわ。
後段で延々と書いている内容(繰り返された失敗の構造、失敗の連続性)は、失敗の本質の指摘そのものなんだけど?

それと君の書き方は、「ベトナム戦争、キューバ危機等々は冷戦という全体ストーリーの一事象だから、個々の事象自体を扱うことに意味はない」と言っているに等しいわ。

とりあえずアリソンの『決定の本質』でも読んでから批判しろよ、低能。

記事のタイトルに惹かれましたが、文章があまりにひどすぎて読めませんでした。推敲することをおぼえていただきたい。

この記事書いた人は同和部落の人では?

的外れな批判だ。
「失敗の本質」序章を100回読め。

君の期待する本ではないと著者がわざわざ書いてる。

この本は戦史ではなく組織論の本ですよ
敗因はわかっているが、その上で個々を分析し物量・総力戦を超えた優越構造を語っている
ブログ主さんは少々視野と読解力が弱いようですね

 ただ本質と言っている以上、「組織の話」でごまかさないで、戦史も公平忠実に、またはそれが出来ないのなら多面的に表と裏の世界や歴史、力関係、外交、戦略を考慮に入れることは非常に重要だと思います。「失敗の本質」にしても、それがすべて正しいとするのはどうかと思います。そういった意味で、このプログで言われていることも一理有ると私は思います。この方が、何を言いたいかであり、国語の問題ではない。「文が散文だ」とか「同和」とか、そんな事は、それこそ本質とは違うと思うのですが?

戦術(テクノロジー)を知らない戦略家などなんの価値もない。
戦争は最後の勝敗だけでなくその過程にも大きな意味があるというのに。
日本が犯した過ちは戦争に負けたことではなく
無駄に国民を死なせたことだということがまったくわかっていない。
戦術の基礎を分かりやすくまとめたジョミニを批判するのはお門違いだわ。
ジョミニは戦略を理解していなかったのではなく諦観していたんだよ。
アメリカの優位は戦略云々によって作られたものではないしアメリカは戦術というものをとことん追求している。

あなたの文章は内容以前に日本語がおかしくて信用に値しません。
途中で読むのをやめました。
中学生程度の文章推敲すらできていない。
自分の文章を客観視できない人が「他人にもの申す」なんてことして相手にされると思いますか?
言っておきますが私は『失敗の本質』の愛読者でもなんでもありません。
この本の書評を読みたかっただけです。
そしてあなたの文章は書評ですらなかった。
残念を通り越して滑稽です。

なかなか、みなさん感情的意見ですね。まあ、書き方は悪いですが、本質を捉えると、戦略=Σ戦術と捉えてるジョミニの思想で書いた「失敗の本質」は規格が違うという事で、非常にクリティカルな意見だと私は思いますよ。思想から生み出される設計能力につき、比較をするのが、本当の「失敗の本質」の研究なのにそうなっていない。大手日系企業が外資系戦略コンサルに頼る必要がなぜあるかというのはここに本質が隠されている気がします。真のインテリジェンスとは設計能力だと。

ほんとうに本書を読まれてますか?
単純な事実誤認が散見されました。
本書に書かれていないような内容を、あたかも本書に書かれているかのように言ってるのはわざとなのか、単に読んでないだけなのか知りたいです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「失敗の本質」がダメな理由:

« 「太平洋戦争」は無謀なせんそうだったのか ジェームズ・B・ウッド著 | トップページ | 政治主導から官主導 »

最近のトラックバック

2018年9月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30