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2010年5月 9日 (日)

「失敗の本質」がダメな理由

 初めに断わっておくが、散文的になっている。

 この「失敗の本質」が名著と言われる理由は、戦後60年たった今も、日本人は日中戦争から太平洋戦争の指導を行った人々と同程度かそれより遥かに劣る能力しか有していない人々が、戦前より遥かに増え、もし、戦後の日本人が太平洋戦争を行えばより酷い敗戦を迎える事になる事を証明する事にしかならない。
 例えば、社民党党首福島瑞穂党首の発言と東条英機の相違はどこにあるのかである。性別以外は全く同じ思考力しか存在しない。これは社民党の前党首土井たか子氏も何ら変化する事はない。東条的事を起こさない為の方法が東条の亡霊を呼び出すのであれば、社民党の全議員と党員・支持者達は広島の原爆ドームにある碑文“過ちを繰り返しません”という碑文に頭をかち割るべきである。
 そして、日本の不況は、戦前の日本陸海軍は世界一と言い、何ら他国の状況を調べもせず宗教の様に信じ込んだ結果であるし、プラザ合意により、世界は人・モノ・カネが自由に動くようになった結果、それまで1ドル240円体制から100円前後になりながらその変化を一切無視した連合幹部や財界・官界・政界・学界の人々の不作為(比較優位を理解していれば)か、無能(クラウゼヴィッツを勉強しながら一切理解できなかった戦前の陸海軍幹部達)かの何れかである。
 ある意味、日本は戦前より愚かになった。
 これは中国に関して、戦前の知識人は化外と化内の違いを理解できる知識人は存在したが、陸軍内には石原位しか存在しなかったが、戦後の人々は、この違いを理解できる人が一人も存在しなくなった。
 マスコミは、戦前も戦後も官僚の走狗でしかすぎない。
 戦前の陸軍が振りかざした統帥権とは、現在で言えば許認可権でしか過ぎない。
 そして、財務省の官僚は、戦艦大和をバカ査定と呼んだが、日本の戦後は、戦艦大和(鉄鋼と造船・巨大プロジェクトの運営ノウハウ)とゼロ戦(新幹線・自動車)を開発した税収で過ごしたに過ぎないにも関わらず、バカ査定と呼ぶ様な無能官僚と無能経済学者と無能ジャーナリストしか存在しない。
 この意味でも、戦後は戦前に劣る人々を多数輩出してきた。
 そして無能な人々が書き、無能な人々が絶賛し、無能な人々が読むという無能の無限連鎖というより、無能の乗数効果を生んだ。

 この「失敗の本質(以下能無しの本質)」が、世の中では名著と言われているが、実際は史上類例無き無能な著作で、この書籍は百害あって一利のない書籍である。
 それは、時代劇の織田信長や平清盛の時代と違い資本主義成立以降に発生した出来事は的確な戦略(物語)を作れているかいないかである。
 時代劇の織田信長(能無しの本質の読者が想定する信長)は、それぞれの戦が分断した戦と思考しているが、現実の信長は天下布武のストーリーを作りながら天下を実現した、日露戦争の日本政府は戦いが始まる前に金子賢太郎をアメリカに派遣しルーズベルトによる日露戦争終結の会議の斡旋交渉を開始している。
 近代戦の本質は、全体が一つの物語となっているのに対して、この能無しの本質では、太平洋戦争を短編集の様に取り扱っている。
 ある作戦は、次の作戦の準備である。故に作戦実行に対しては、戦果の有無ではなく、戦略目標若しくは戦術目標の完遂が求められる。故に戦果が上がった作戦でも戦略目標や戦術目標が失敗した作戦は失敗した作戦に過ぎない。
 「能無しの本質」で成功と論じた真珠湾は失敗した作戦(石油備蓄基地の破壊:戦略目標 起動艦隊の殲滅:戦術目標)であり、沖縄戦は成功した作戦(敵兵力の本土上陸を遅らせる目的は達成された、沖縄県民の犠牲の責任は現地部隊に一切なく全て大本営にあり、沖縄県民の犠牲から失敗と論じるのは知的障害な思考である)である。
 即ち、太平洋戦争とは、真珠湾の米軍基地の無力化を成し遂げた後、絶対国防圏を確保し防戦に勤めるという方策から関係のない作戦は成功したとしてもそれは兵力分散の愚を行った作戦故に失敗した作戦である。故にガダルカナルやインパールはこの範囲を超えた戦いであり、補給が成功したとしても百戦百敗した戦場である。補給が上手くいけば成功したというのなら、日露戦争における旅順攻略作戦は、児玉が出てこなくても伊地知の作戦で成功したという意味でしかない。
 そもそもインパール作戦を成功させて何の意味がある作戦なのかである。他の書籍には、牟田口がインド侵攻を考えていたと言われているが、敗戦を防ぐため戦略・戦術上の要地を確保しなければならない時期にインド侵攻作戦などはキチガイの戯言にしか過ぎない。当時の日本陸軍の大本営はキチガイ集団としか言えない事を数多くを行っている。
 例えば、米軍が全ての島々を一つづご丁寧に叩くと思考し、太平洋の小島に兵力を配置したりしたのだが、正常な人の戦略・戦術は基本的に要地に人員を配置する。
 まるで全共闘世代の人々と何ら変わることのない思考である(このゴミ本の作者等は全共闘世代である)。
 この太平洋戦争の物語の失敗は、その後戦後の日本企業も同じような失敗を多数繰り返しているが、ストリートしては吉野家の倒産と太平洋戦争敗戦のストーリーは非常に類似した失敗であり、セブンイレブンの出店方式などは日本陸海軍の失敗の愚を学んだ様な出来事であるが、「能無しの本質」の著者等や愛読者では理解不可能な話である。
 「能無しの本質」の愛読者達は、能無し故戦前の陸海軍が行った失敗点と全く同じ過ちしか犯さないのである。

 最大の理由は、この著者等が失敗と思考している点を改善しても、陸軍作戦は失敗した作戦である点にあり、まず誤った失敗点を見ている点にある。
 これを現代に例えるとアメリカは、ベトナム戦争の敗戦原因を陸上戦闘に見て、この失敗を解決する手段としてRMAという改善策を出したが、そのRMAを試している戦場であるイラク・アフガニスタンの戦場において、ベトナムと全く同じ過ちを繰り返しているのは、間違った失敗点を直そうとしているからである。
 このゴミ本も同じく誤った失敗点を取り上げ、日本国民に誤った思考を流布して自己の無能さを日本国民に浸透させようとした悪辣さが出ている書籍である。
 また、この著者等が再度「戦略の本質」というより悪辣な書籍を刊行し、日本国民に自己の徹頭徹尾の無能さを流布し、日本国民を世界史上最も無能な国民に教育しようとしている点にある。
 より悪辣な書籍な「戦略の本質」という勝った戦場を取り上げるというが、古来より「敗戦は必然、戦勝は偶然」と言われているのは、「敗者は戦勝を秘し、勝者は敗戦を秘す」と言われるように、勝った戦場にも敗戦理由は存在する。しかし、勝った戦場にも負けた理由は存在し、我々は勝った側の敗戦の理由を発見するのは困難である、しかし、負けた戦場には勝った理由が転がっており、それが負けた戦場から多くの事を学べる事になるが、勝った戦場からは学ぶモノを発見するのは殆ど不可能な作業である。
 故に、古来より「賢者は愚者の過去を知る、愚者は愚者の過去しから知らない」と言われるのである。
 トヨタ自動車は、トヨタ式生産方式という方式を確立し、世界的自動車メーカーになったが、多くの日本企業は、このトヨタ式生産方式を真似たが上手くいかず、トヨタ関連で大野耐一氏の弟子達をコンサルタントとして雇い自らの誤ったトヨタ式生産方式の改善に勤しんでいる。これに対してアメリカは太平洋戦争に勝った総合力でトヨタ式生産方式を解析し遥かにトヨタ自動車以外が理解した誤ったトヨタ式生産方式より遥かに確かなものにした点と、このゴミ本はある意味、日本の企業が真似た謝ったトヨタ式生産方式の類似点が存在する。
 間違った失敗点は百害あって一利なく、誤った勝ちパターン程外多く益なしとしたモノはなく、この著者等の書いた「失敗の本質」と「戦略の本質」の2作は世界史上最悪の書物であり、日本に害をなしたという点でいえば「ジャパン・アズ・ナンバー1」と害の双璧をなす書籍である。
 
 名著と思考されている「失敗の本質」本当はどうしようもないダメ本である理由は、太平洋戦争は総力戦である。
 これに対して、著者らは太平洋戦争中の日本陸海軍同様ジョミニの戦略論に基づいた研究を行っていることが最大のダメな理由である。
 海軍はマハン戦略の申し子であるが、マハン自身はジョミニの範疇に入る人で、マハンをより理解する為に、海軍は日本で初めて陸軍戦略・戦術論であるジョミニを訳した。
 世界の戦争は、ある意味ナポレオン戦争以前と以降に分かれる。
 ナポレオン自身は、ナポレオン以前に属するし、ジョミニもナポレオン戦争以降にでた本であるが、ジョミニはフランス人である為、ナポレオン戦争を参考にして著述したのに違い、クラウゼヴィッツはドイツ人であるため、対ナポレオン戦争の様な戦争に勝つために生まれたという違いが出てくる。
 ジョミニは、ナポレオン戦争以前の様に一つの大会戦が戦争全てを占めている時代の思考であり、戦争自体が短編小説の様なものであるのに対して、対ナポレオン戦争に勝つには、戦争を一つの長編小説の様に思考し、ある会戦は次の会戦の為に行われる戦争である。
 太平洋戦争を一つの長編小説と思考すると
1、 真珠湾作戦→戦略目標;石油備蓄設備の破壊 戦術目標:起動艦隊の破壊
2、 ミッドウェイ→真珠湾において戦略・戦術目標に対する作戦で失敗した為、再度戦術目標の攻略。
3、 ガダルカナル→本来は絶対国防圏を確保しなければならないのだが、トチ狂いニューギニア・オーストラリア侵攻作戦を行おうとした。
4、 インパール→インド侵攻作戦
5、 レイテ→絶対国防圏の最終ライン
6、 沖縄戦→本土上陸作戦に対する時間稼ぎ

 ゴミ本では、ノモハンがあるが、ノモハンはソ満国境ラインが未確定であったが、服部・辻コンビは、ソ連軍をなめ切っており、日本陸軍がちょっと出てくればソ連はすぐに引くので簡単に片付くと思考して行った作戦である。当時の陸軍参謀本部内ではソ連の的確な戦力を報告すると“恐ソ病(ソ連を恐れている)”というレッテルを張られ、ソ連など日本陸軍が出てくればお茶の子さいさいと考えなければいけなかった。これはアメリカに対しても同じで、日本陸軍が出てくればアメリカ兵は裸足で逃げ出すという様な思考に支配されていた。この様な考えをより強く持っていたのが東条や辻・服部・牟田口等であり、石原の様に日本は日中戦争などせず、20年位の時間をかけてアメリカと対抗できる工業力を見に付けるまで戦争自体を控え、体力がついた1960年代にアメリカと全面戦争をすれば良いと考えていた。戦後の混乱期自体を除けば1970年の終わりから1980年全般程度の工業力という事になる。
 この為、石原は宮崎正義等を使い日本株式会社構想を作り出した。この点に関しては野口悠紀夫教授や小林英夫教授の著作が参考になる。
 即ち、東条・辻・服部・牟田口やゴミ本の著者等や愛読者等がジョミニの戦略思想に犯されているのに対して、石原はクラウゼヴィッツの思想の申し子と言える。
 現在でもクラウゼヴィッツの知名度はエベレストの様に高いが、理解度はマリアナ海溝の底より深いレベルであり、逆にジョミニは知名度はマリアナ海溝の底以下の知名度(存在しない)が認知度はエベレストより遥かに高いレベルにある。

この違いは、平時から戦争に対してあらゆるモノを動員し戦時に戦争に勝つ事を目的にすると言えば簡単な意味であるが、国家がその総力を挙げて戦争に勝つという目的をなすのと、個人が武勇を奮い個人の名の誇りが戦場の名の誇りになる戦いの違いであり、ナポレオン戦争以前の戦い(当然ナポレオン自身の戦いも含まれる)は、それぞれの戦いには個別の目的で行われており、それぞれの戦いに勝つ事が目的である。
 しかし、ナポレオン戦争以降の戦争(盧溝橋事件から太平洋戦争敗戦に至るまでの全日本陸軍の戦いは除く)は、敵国を屈服させる事を目的としている為、個別の個人の勇名を必要としない。
 日本の戦場で言えば、元寇の役における鎌倉武士と元の兵士の違いといったところである。元寇の役までは、名乗り名を上げて個人の勇名さを競っていたが、こんな戦いをしていたら元には勝てないので個人の勇名さを競わない戦いに徐々に変わっていった。
 即ち、戦場では一人の那須与一よりも、無名の10名の兵士なのである。
 そして戦場の兵士は、あたかも工場労働者の勤勉さと同じ勤勉さが求められる戦いであり、個人の勇名は、戦場全体の無意味な行為にしかならない。
 工場で不良が発生する理由は、前近代の工場では個々人の職人の技量によったが、現在の工場では、個々人の技量ではなく、設計者の過ちや計画担当者の無計画さや工場長の無無謀な生産計画であったりし、工場労働者は、ごく平均的能力しか求められない。
 日本の戦場では、戦国時代には消えてなくなった個人的勇猛さを、第一世界大戦が始まる前まで持っていて、高学歴の人間がこぞって志願兵として戦場に出てきたが、個人的勇猛さを発揮できるような戦場は、第一次世界大戦のどの戦場にもなく、彼らが活躍できる第一次世界大戦の戦場は工場や参謀本部の分厚コンクリートの中で、平時と何ら変わらない事務労働にしか能力を発揮できる戦場は存在しなくなった。
 この第一次世界大戦は、本国の工場も戦場の一部と見なされ攻撃目標になり(戦前の東京市は、全域に小さい町工場が点在していた為、第一次世界大戦の戦訓から言えば、東京市は全域が工業地帯であるため、敵攻撃目標になるのは軍事常識であり、これだけ広範囲に工業地帯が広がっていれば、どんな防空体制を作っても守る事は不可能なので、本来ならば工場を一か所に集めるべきであった)、また生産量を上げる為にはサマータイム制度を引き(サマータイム制度は第一次世界大戦中生産量の増強目的で誕生した)、規格を統一し(日本がJIS規格を作り規格の統一したのは戦後米軍の指導による、このゴミ本の著者の一人が大和ミュージアムの館長のゼロ戦のタンクの位置の相違というオタク話に関心していたが、ネジの規格が違う為、そのまま同じものを作っても全く別の戦闘機)、同一設計品をどれだけ短期間に大量に製造できるかが、第一次世界大戦以降の総力戦というクラウゼヴィッツの戦略論の支配する戦場での勝利の法則であり、全体の戦争設計の有無こそが失敗の本質である。
 戦前と戦後の相違で言えば、戦前は資本財を輸入して消費財を輸出していた、それに対して戦後は資本財を輸出するようになった。
 この点に関して、日米独の3カ国の内、米独は資本財を輸出していた。第一次世界大戦で言えば、英独仏の3カ国は資本財を輸出していた国である。ロシアは第一次世界大戦・第二次世界大戦共に資本財を輸入していた国である。
 また、ナポレオン戦争以前にはというより、近代資本主義成立以前では、その国が資本財を輸出しているとか輸入しているとかは関係がない。ナポレオン戦争以降で第二次世界大戦終結までの期間で資本財を輸入している国で戦争を起こしたのは、日本とロシア(ソ連)位である。戦前素晴らしき日本の工業力とはアメリカ製やドイツ製の機械を並べることであった。
 総力戦とは、その国が資本財を輸出できる国かそうでないかは全く関係がないのである。
 特にナポレオン戦争以前では、そんな事はどうでもよい事であった。

 戦前の日本には、この戦争設計が基本設計を含めて一切存在しないのである。
 太平洋戦争開戦前の話の中心はやるかやらないかしかなく、やるには現在振り分けられる物資をどれだけ取れるかという省庁間の争いに終始し、全体の戦争設計や米国の国内事情などは全て無視した。
 この点を日露戦争時に日本と比較しても全く違うものである。
 もし、このゴミ本の著者等と愛読者の脳みそを全て集めて爪楊枝の先に乗るくらいあれば、日露と比較するというのは、簡単な社会学的手法でもある。
 このゴミ本では、まず著者等が完全無欠の無能故全体の戦争設計が出来ず、個別の戦場の可否しか見ず、成功しても無意味な戦場(ノモハン・ガダルカナル・インパール)を取り上げたり、ある意味成功した作戦と言える戦場(沖縄戦)を失敗したりしているのは、彼らがバカでも理解できるジョミニ風(あくまでも風でしかない)で見た所にある。
 このゴミ本の愛読者に出来るのは、東条や辻や服部や牟田口と殆ど変化のない行為しか出来ないであろう。

 この点が盧溝橋事件以降の陸軍首脳部の様な、超人的肉体(1か月も何も飲まず食わず、寝ず、マラリアにもびくともせず、弾丸を跳ね返す肉体)を有さなければ成立しない作戦計画などは論外な作戦である。
 現代においても、このゴミ本の愛読者達は、陸軍首脳と同じように超人的肉体を有さなければ成立しない計画を立てて喜ぶのである。
 このゴミ本の愛読者として有名な経営者は、何年も愛読書にあげているが、最近東洋経済で古典の愛読書としてあげたのはどれもが、教養のある財界人に無教養とバカにされないレベルの本しか上がっていないし、もし、彼に向学心と探求心が存在すれば、陸軍参謀本部の参謀の有していた手帳には孫子の要約本が印刷されていたという話から孫子に興味を持ち、孫子やその解説書を読み、孫子そのものや幕末の志士の共通言語であった十八史略を愛読書にあげるのだが、あげていないのは彼には向学心も探求心も存在しない事を証明しているだけである。
 このゴミ本の愛読者のレベルが想像出来るものである。
 向学心も探求心も存在しないレベルの短期的利益を望み、結果的に長期的は滅んでしまう人がこの愛読者の基本層をなしていると考えられる。
 
 総力戦においては、孫子かクラウゼヴィッツ以外適用は不可能であるのに、著者等は頭が悪い為、ジョミニ風戦略論をなんとか理解できる程度であるため、総力戦としての失敗を一切理解できず作品を書き、読者も頭が悪い為、ジョミニ風をボチボチというレベルである。
 故に、このダメ本の著者等や愛読者にとって、太平洋戦争敗戦の理由は、あくまでも兵士が頑張らないから負けたと思考しているに過ぎず、実際このダメ本の著者の一人は「社員が働かないから赤字なんだ!」と喚いた社長(現相談役)の会社で社外取締役を勤め、現在この会社はお家騒動の真っ最中であるが、この著者は沈黙を守っている。
 また、現在の日本においても総力戦というものの理解力が非常に低いため、サマータイム制度に関して、変な議論を進めている。
 欧米がサマータイム制度を引いたのは第一次世界大戦中である。
 このダメ本の愛読者達は、サマータイム制度を引くと余暇時間が増えると言っているが、欧米人にとって第一次世界大戦とは、暇つぶしの為に発生した戦争であるとでも思考していないと、余暇時間が増えるなどという世迷いごとを言うはずもない。
 即ち、この著作は、その程度のバカが書き、バカが愛読者であるという作品に過ぎず、本来、この著作の価値は、それまでは旧陸海軍軍人や自衛隊出身者が書いていた戦前の戦争に関して、それ以外の人が書いたという価値しかない。
 太平洋戦争は、総力戦という観点から、戦略論として孫子やクラウゼヴィッツを元にし、書かなければ太平洋戦争失敗の本質は一切理解できない。
 太平洋戦争失敗の本質は以下の7点にある。
1、 盧溝橋事件の勃発(陸軍の組織的統治)→太平洋戦争前に陸軍は組織としては崩壊していたと見るべきである。
2、 各工場の規格統一→生産管理学(経済学)教育の充実(現代でも課題)
3、 工業力の拡充(サマータイム制度を初めとする諸制度や宮崎正義の計画した産業政策の実現と工業地帯の確立(戦力不足の原因と東京大空襲の原因)→生産管理学(経済学)教育の充実(現代でも課題)
4、 民主主義における公約の意味(ルーズベルトの3選目公約)→政治学教育の充実(現代でも課題)
5、 外交文書における日付の意味(ハルノート)→法学教育の充実(現代でも課題)
6、 戦艦大和の政治的意味(特に外交における戦艦の意味付け)→国際関係論教育の充実(現代でも課題)
7、 日本海軍の艦隊決戦思想の排除(現代でも財務省の財政均衡論思想は似た思想である)。
これは、日本が南方資源ルートを太平洋戦争の資源ルートに選択した以上、艦隊決戦はそもそも出来ない戦いである。何故ならば、艦隊決戦の戦場と資源ルートが同一の場所にあるなどは基本的あり得ない話である。
 太平洋戦争の失敗と言いながら、日本は戦後それぞれの失敗をそのまま放置したまま来たので、太平洋戦争の課題と言いながら、その殆ど全ては現代の課題でもある。
 そもそもの失敗は、小村寿太郎による米鉄道王ハリマンに対する南満州鉄道売却阻止である。
 そして、総力戦とは、ストーリーのある戦争である。故に、全体の戦争設計が出来ないと戦争に勝つことは出来ない。
 この点が、日露戦争より前の戦争との違いである。
 それまでの戦争にはストーリーがなく、個別開戦の勝敗の蓄積が戦争全体の勝利につながった戦争であり、特にナポレオン戦争とは、個別の戦いの蓄積に過ぎず、戦争設計が存在しない戦争である。
 故にジョミニは、小さい戦闘を戦術とし、大きな戦闘を戦略と規定した。戦略と戦術の違いは戦場の大小が決定した。故にこのバカ本の著者等は「戦略の本質」という書籍では大規模戦闘を書いた。
 経営論における戦略論の本質もこのジョミニ風であり、ポッターや大前研一の「企業参謀」もこの範疇に入る。但し現在の大前氏はジョミニ風からクラウゼヴィッツ風に転じている様である(大前氏は学ぶべき古典に孫子を上げているのはその表れであると言える)。
 これに対して孫子やクラウゼヴィッツは戦闘の大小を問わず戦術とし、戦争全体を戦略と規定した。
 この違いは何から出てくるのかと言えば、簡単な話で、世の中には戦術家と戦略家の2種が存在するが、共に戦術・戦略を立てるが、用語それ自体は、戦略家も戦術家も同一であるが、中身はまるで違うものになる。
 戦術家にとっては戦略と戦術と分かれるものも、戦略家にとっては戦術という事になる。
 これは、ナポレオン戦争以前の欧州には存在しない観念であると言って良い。それまでの戦争とは大会戦を示し、大会戦の勝者が覇者となったが、ナポレオン戦争以降では、大会戦の勝者が覇者を示すとは限らなくなった。
 大会戦に勝利しても、それが覇者の証ではなく、一つの戦場の勝利に過ぎない。
 これは、中国史で言えば、春秋戦国時代や三国志の時代と似た状況になった為と言える。現代もある意味で春秋戦国時代や三国志と類似した時代である。
 ナポレオン戦争以前の戦争では、欧州王室は全て婚姻関係を結んでおり、全てが親戚同士の争いと言って良い戦いであった。ナポレオン自身もオーストリア帝国のハクスブグ家と婚姻関係を結んでいるので、ナポレオン自身もナポレオン戦争以前の人と言ってう良いのかも知れない。
 このナポレオンに関しては、誤った科白として、「戦争の天才」と呼ぶ事にある。
 ナポレオンは「戦術の天才」であるが、「戦略のアホ」や「戦争のアホ」でしかない。
 ナポレオンは、何故エジプト遠征やモスクワ遠征を失敗したのかと言えば、戦略と言われる範疇の失敗でしか過ぎない。
 エジプト遠征では、海軍力を無視し、モスクワ遠征では補給を無視したし、ナポレオン戦争全体に言える事は、ナポレオンに戦争設計が存在しない事にある。
 ナポレオン戦争以降の戦争に関して言えば、普仏戦争・日露戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦などは、戦争設計に優れた方が勝っているのである。
 ゴミ本の著者等や愛読者の共通項は、戦争設計が作れない事にある。
 戦争設計のない戦争に勝利が存在しない事が、ナポレオン戦争以降の共通項である。現在の日本の落ち込みも、国家や企業に基本設計を作れない事にあると言って良く、このゴミ本は、この現在の日本の無能さを証明する書籍に過ぎないのである。
 この様なゴミ本を名著と言えるから日本はダメになったのである。
 
 太平洋戦争の失敗は、当時の日本陸軍において戦略家と言えるのは石原莞爾だけであるが、石原は太平洋戦争前に東条によって予備役に編入されており、太平洋戦争を通じて予備役のままであった、またノモハン時の関東軍参謀長を勤め、ガダルカナル・インパールを通じて参謀本部作戦課長を勤めた服部卓四朗は、満州事変から太平洋戦争を通じて最高の名将は石原であるとしたが、その石原不在の戦争が太平洋戦争という戦争である。
 塩野七生氏は、「亡国の悲劇とは、全ての人々の悲劇ではなく、活用されなかった人々の悲劇である」といったが、この言で言えば、太平洋戦争とは石原にとっては悲劇であるが、東条・服部・辻・牟田口等にとっては、太平洋戦争とは喜劇でしかなく、米英の将官達は「日本軍で一番頭が悪いのは参謀肩章を吊った奴らだ」と言い、「日本軍の対処は簡単だ、彼らは日露戦争の勝ちパターン通りに攻めてくる、我々はそれを予測して兵力を配置すれば目をつむっておいても勝てる」というお笑い戦いが、ノモンハンやガダルカナルやインパールといった作戦である。
 有名な言葉として「兵士の失敗は自分の死で償う、将官の失敗は兵士の死で償う」と言われており、この3作戦は、全て日露戦争の旅順攻略作戦の児玉が来る前の伊地知の作戦のコピー作戦でしかない。故にこの3作戦は、最初から負けを義務付けられた戦いであり、ノモハンには勝ち方(航空機の運用)があったが、ガダルカナル・インパールは行動限界を超えた所での戦いであり、作戦を多少いじっても百戦百敗の戦いであり、作戦そのものより、作戦の決行決定過程自体が失敗の本質であり、バカ本である「失敗の本質」の様に作戦詳細を描くだけで、著者等や愛読者達がバカである事を証明するだけでしかない。
 このバカ本には意味がある。
 世の中において勝ちパターンから学ぶことは出来ないが、バカのバカである理由から多くの事を学ぶ事が出来るので、この本から学べることは、バカが何故バカな思考をして、この本を書いたかという理由と愛読者達が何故バカなのかという理由が学べる書籍である。
 現在、日本が不況を継続している理由も、このバカ本が名著と言われる事が重要な理由である。
 戦後日本は、あらゆる面で戦前の遺産の継承でしかすぎず、その遺産とは宮崎正義の立てた日本株式会社(詳しくは小林英夫氏の著作)と戦艦大和とゼロ戦を作った事にある。
 戦前日本は、クラウゼヴィッツ・孫子を知らずして負けたが、現在日本もクラウゼヴィッツ・孫子を知らずして負けているのである。
 
 ガダルカナルとインパールの2作戦は、戦後餓島や白骨街道の名称で呼ばれている為、著者らや昔NHKで放映した番組でも補給の問題を取り上げているが、ガダルカナルとインパールは例え補給が上手くいったとしても作戦は失敗した作戦である。
 ノモハン・ガダルカナル・インパールの3作戦は、どれも似通った失敗を行っている。
 これは日露戦争における二〇三高地作戦において、児玉源太郎が出てくるまでの第3軍の伊地知が立てた作戦と全く同様の作戦であり、結果的に辻・服部・牟田口の3者は、日露戦争における伊地知と全く同じ過ちを犯したに過ぎない。
 二〇三高地の伊地知の失敗は、補給の失敗ではなく、攻城戦において、長距離砲による要塞への攻撃と同時に地上部隊を突撃させることであり、児玉が二〇三高地で取った作戦は、その後の第一世界大戦において攻城戦において使われ、攻城戦の作戦常識となった。
 故に、3作戦の成功の成否は、二〇三高地における児玉の作戦を何処まで応用可能かによる。
 但し、インパール・ガダルカナルの両作戦を成功させるには、指令部と現地の間にガダルカナルの場合は空母部隊若しくは司令部とガダルカナルの中間の島に飛行場が必要で、インパールの場合は飛行場が必要になる。
 ガダルカナル・インパール共に敵は航空機による補給を実施している為、地上部隊をたたく為には、敵補給路を潰せない限りにおいて作戦そのものが不可能な作戦である。
 例えば、インパールは部下の師団・上司である方面軍は共に作戦の成功の見込みがないと却下した作戦を牟田口がお友達である東条や服部・辻に頼んで実行を願った作戦である。作戦反対理由は、敵補給路が叩けないという理由である。
 また、インパールには戦略上・戦術上全く意味のないタダの消耗戦に過ぎない。「失敗の本質」と称しているが、インパールに勝ったからと言って全く意味が存在しない戦闘行為である。本来は絶対国防圏の確保が戦略上重要な点なのに、行動限界を超えてまで作戦を実行する意味自体が存在しない作戦であり、私が方面軍の指揮官や参謀本部の作戦課の一員であれば、この計画が送られてきた時点で、牟田口を脳に重大なる欠陥が存在するという事で、病院に拘束着を着せて入院させるのだが・・・・。
 インパールに飛ばせる飛行機は一切存在しない作戦であり、ガダルカナルは、ゼロ戦が飛んでいっても現地滞空時間は10分以下という条件の作戦決行である。
 即ち、その条件がそろっても攻城戦においては守る側が孤立したとしても、攻める側は守る側の3倍の兵力が必要と言うのは軍事上の常識である。
 即ち、敵戦力を全滅させても自軍は2倍の損失を出す作戦である。
 故にインパール・ガダルカナルの両作戦は、補給が上手くいったとしても、敵補給路が潰せない以上、ダラダラと攻城戦を行う事になり、敵兵力が1損失するのに自兵力は2損失する事になり、自軍はダラダラと悪戯に兵力を損失するだけの作戦にしかならない作戦である。即ち、児玉が現れる前の第3軍と全く同じ様に悪戯に兵力を損失するだけの作戦でしかなく、作戦を実行した事自体が誤りである作戦である。
 故にガダルカナル・インパール作戦の失敗の本質は、現地に一切存在せず、作戦の実行の過程に失敗の本質が存在する作戦である。現地での作戦詳細をどんなに丁寧に記載してもそれはバカのバカによる無駄な努力にしかならない。
 そもそも絶対国防圏を築かなければならない時に悪戯に兵力の消耗の愚を犯した作戦で、作戦の決定形態ではなく、現地作戦詳細を記載するのは、この著者らが心底無能か、総力戦の意味が全く分からない為、当然孫子やクラウゼヴィッツを理解することは不可能な為、アホでも理解可能なジョミニで太平洋戦争を解析しようとした愚か者達が無能さを発揮しただけの書籍である。
 故に日露戦争で伊地知が犯した過ちのデッドコピー作戦をわざわざ取り上げたり、太平洋戦争前に問題がなかったと書いたりすることが可能なアホ達でしか過ぎない。
 ノモハンの作戦の失敗は、攻城戦において、二〇三高地で児玉が長距離砲を使った様に、日本軍は長距離砲の代わりにソ連軍より優秀だった航空戦力を多用することにより、敵縦深陣地を攻撃すると同時に地上軍を突入させるべき作戦であり、辻・服部が取った行動は旅順攻略において伊地知が失敗した作戦と何ら変化のない失敗である。
 故にノモハン・ガダルカナル・インパールの3作戦は、旅順攻略において伊地知が取った大失敗した作戦を3度同じコピーを行い、そのコピー品質が作戦をたどるごとにコピーの品質が更に悪化した作戦でしか過ぎない。
 またガダルカナル・インパールの両作戦の失敗と思考している補給の失敗は、この両作戦よりも南京攻略の方が補給の失敗した作戦としては最適である。
 何故ならば、南京事件の本質は、補給を一切持たない為発生した問題に過ぎない。
 故に、補給の失敗は南京攻略の方が適切な作戦であると言える。
 この陸軍の補給の失敗の本質は、牟田口(インパール作戦の実行者)が起こした盧溝橋事件から始まる日中戦争全般における問題でもある。
 この源流は、満州事変に遡る話である。
 満州事変は、天皇・政府から奉勅命令は存在しないが、陸軍の総意として行われた作戦であるため、満州事変においては、作戦に必要な長距離砲を本国から送っているのであるが、奉勅命令は出ていない為、基本的に石原・服部征四郎の独断による作戦実行であり、朝鮮にあった部隊指揮官は、勝手に満州に進撃し、朝日新聞を初めとする新聞社に越境将軍と称えられ、3者共に勝手に軍隊を動かしたにも関わらず軍法会議にかからず出世したことが、盧溝橋事件以降の日本陸軍の陸大歩兵科卒業者の習いとなった。
 陸大歩兵科卒業者以外においては、日本でも欧米でも軍法会議にかかり軍籍剥奪の上、死刑である。
 日本おける好例は226事件である。
 226事件は奉勅命令がないのに部隊を動かした事が罪に問われ、軍籍剥奪の上死刑になった事件であるが、張作霖爆殺以降太平洋戦争終結にいたるまでの殆ど全ての作戦は、奉勅命令のない作戦である。
 それでも、まだ盧溝橋事件以前までは陸軍の総意という部分は存在したが、盧溝橋事件以降では、陸軍の総意というものが消え去り、ただ単なる陸大歩兵科卒業者の出世目的で自分勝手に部隊を動かし、この為自国民を名誉の戦死という自国民を何人殺したら出世出来る状態になり、それぞれの部隊指揮官が勝手に部隊を動かした結果、補給作戦など取れる状況ではなくなり、現地調達という方針になったにすぎない。
 この勝手に部隊を動かしたら出世出来る体制を築いた事が陸軍最大の失敗である。
 この失敗は、張作霖爆殺事件において河本大作を直ちに本国に呼び戻し、軍法会議にかけ軍籍剥奪の上死刑という刑罰を与えなかった陸軍の致命的欠陥となり、満州事変においては、服部征四郎や石原莞爾を軍法会議にかけず、昭和天皇が首相だった広田弘毅に対して関係者を処罰するよう指示を与えたにも関わらず、広田は天皇の命令を拒絶し、内閣を総辞職させた、またこの広田は海軍の生みの親と言われる山本権兵衛がおこなった陸海軍大臣の現役制度の廃止を簡単に廃棄させ陸軍暴走の生みの親になった。
 元官僚である佐藤優氏は、官僚の良心とは出世する事であると説いている。即ち陸軍軍官僚の良心とは、政府の命令を完全に無視し、自分で勝手に部隊を動かし、何人自国民を戦死させる事が陸軍官僚の良心である。
 補給無視の現地調達の好例かと言えば、そもそも松井に下った陸軍の命令は上海攻略である。これに対して松井は、上海攻略に成功した余勢をかり南京攻略を勝手に行った。基本的にこれだけで松井は軍法会議にかかり軍籍剥奪の上死刑以外の判断しか出来ない単なる犯罪者に過ぎない。
 日中戦争とは、陸軍の攻撃した地点は、阿片の栽培地や販売地といった阿片がらみの土地ばかり攻撃するという阿片利権獲得を目指したものであり、この阿片利権のおかげで東条英機は現在の貨幣換算で1000億円と言う政治資金を得た。
 即ち、盧溝橋事件以降の日本陸軍の作戦は、陸大歩兵科卒業者の出世と阿片利権を求めた作戦に過ぎない。
 「失敗の本質」という史上まれにみる能無し本を出した著者らは、太平洋戦争前には特に問題はないと記載しているが、現実には陸軍は問題だらけであった。
 また、東京大空襲も陸海軍の不作為による犯罪事件以外の何物でもない。
 第一次世界大戦とは、総力戦の始まりであり、敵工業力の破壊は当然の行為であり、東京市(現在の東京23区内も同じ状態)は、市内に町工場が点在しており、これは東京市全体が工業地帯となり、敵は当然工業地帯である東京市全域における空爆は想定させる事態であり、陸軍のドイツ留学者の中にはこの想定をレポートとして提出した者もいたが、歴代の陸軍首脳は全て無視した結果東京大空襲の被害を生んだのであり、これは不作為以外の何物でもない。
 特に開戦を決定した東条内閣の陸軍大臣・参謀総長は、東京大空襲の真の実行者である。
 この陸軍大臣と参謀総長は東条英機が兼務しているので、本来ならば東京大空襲の被害者達は東条英機の遺族を相手取り損害賠償請求をすべきである。
 これは、BC級戦犯の遺族も本来であれば、遺族年金は東条英機の遺族達が支払うべきものを政府が肩代わりしたに過ぎない。
 何故ならば、捕虜虐待とは、ジュネーブ条約違反という行為であり、アメリカ政府は外務省を通じジュネーブ条約を準拠するかしないかの問い合わせを行った時、外務省はジュネーブ条約を守ると回答しながら兵士達への教育を怠ったり、代わりに東条は捕虜虐待を支持する様な戦陣訓をだした。これは東条によるジュネーブ条約違反の命令書であり、当然BC級戦犯は、東条の不当な命令を守ったため、戦後犯罪者として処罰されており、これは東条英機の個人的犯罪行為であり、東条英機遺族はBC級戦犯に政府が支払った遺族年金は本来であれば東条英機遺族が支払うべきものを肩代わりしたに過ぎない。
 故に政府は、東条英機遺族に対してBC級戦犯の遺族年金全額と東京市破壊と復興にかかった費用の全額を東条英機遺族に請求すべきものである。
 話は元の史上最悪のダメ本「失敗の本質」にもどるが、このダメ本は本来軍事作戦としては成功したと言ってよい沖縄戦を失敗したと論じているのである。
 作戦の成否は、作戦目標の成功の是非である。
 即ち沖縄戦の作戦の可否は、出来るだけ遅らせることであり、この作戦目標は硫黄島の作戦と同様であり、この意味で言えば、沖縄戦は作戦目標自体は成功したと言える。
 失敗点は、沖縄県民の犠牲であるが、これに関しては現地部隊の責任ではなく、大本営陸海軍部の問題であって、現地部隊の問題ではない。
 この歴史上最悪のダメ本「失敗の本質」がガダルカナル・インパール・沖縄戦と本来大本営の失敗に記す作戦を現地部隊の作戦に記すという過ちを犯しているのである。
 即ち、作戦の責任における責任分担の概念が一切出来ず、上級司令部の失敗も現地部隊の責任に記しているのである。
 この著者の一人が、現在社外取締役を務める会社でお家騒動が発生し、経営が上手くいかないのは社員の働きが悪いからだといった人の元で社外取締役が務められるのは、どの様な下手な作戦を上級部門が命令しても、部下は作戦を成功させなければならないという「失敗の本質」という書籍の精神を体現した結果だと言ってよい。
 この著作を名著と言える経営者達も、経営が上手くいかないのは経営者が下手な経営施策を打ったからではなく、部下が働かないからだと思考しているためであると考えられる。
 古典的な言葉では「兵隊の失敗は、兵隊は自分の失敗で償うが、指揮官の失敗は兵士の死体が多数でるだけである」
 この著者らの精神は、ガダルカナル作戦が失敗に終わった時、作戦を立てた辻正信は作戦失敗の理由を「兵士の精神力が弱いからだ」と記載し、東条英機が敗戦時に書いたのは「日本国民がこんなに精神力が弱いとは思わなかった」であり、この作品の著者の一人が社外取締役を務める会社の経営者は「赤字になったのは社員が働かないからだ」といったと新聞・雑誌に書かれているが、この世界史上類例のなきダメ本「失敗の本質」もこれらの人々同じく「精神力が弱いから負けた」と言いたいのであろう。
 即ち、この著者らの思考する失敗の本質とは、「弾丸に当たっても死なない身体を持たず、マラリアにかかっても鼻水一つ洩らさず、1カ月くらい水も食糧もなくても平気であることが失敗の本質としか思考できない。

 最後に付け加えるのならば、このダメ本と同様のダメ本がかわぐちかいじの一連の政治・軍事関係書籍であり、当然同列の荒巻義男も同程度バカ本でしか過ぎない。
 この様なダメ本群がベストセラーになるから、日本はダメになったのである。

 日本陸海軍共に、戦訓を生かすという事が一切出来なかった。ガダルカナルやインパールの作戦の失敗は、補給の失敗というよりも、作戦計画そのものの立案計画の無さが最大の原因であり、ガダルカナル・インパール共に高度差の強い東南アジアでありながら、作戦立案を行った陸大歩兵科を優秀な成績で卒業した、参謀たちは教科書で学んだ日露戦争の戦勝パターンから一切逸脱する事がなかった。
 作戦計画も平地が続く中国大陸での行軍速度をそのまま高低差の激しい東南アジアに当て嵌めて作られており、これでは作戦を立てた段階で失敗は100%約束されている。故に、補給の問題と言いながら実際のところ作戦を立案した段階で失敗は明白である。
 直線で10㎞と言っても平地の10㎞と高低差2000mの10㎞では時間が大幅に違うが、辻にしても牟田口にしても、これを全て平地と同じ様に計画を立てており、行軍自体は無謀な計画であり、補給は神の業以外の事は出来ない。
 故にインパール・ガダルカナルの両作戦が失敗した理由は、補給というよりも、陸軍の装備にドラえもんの“どこでもドア”と“竹コプター”がなく、防備用の仮面ライダーの“変身ベルト”の3種が存在しないことが作戦失敗の本質的理由と言ってよい。

 また、日露戦争の旅順攻略作戦の参謀伊地知と同じように安全なコレヒドールを一歩も動かなかった牟田口は、伊地知の忠実なる弟子と言える。
 自らは絶対安全な地を離れず、自分の危険が迫れば一目散に逃げ出す指揮官の言う事を聞く部下は存在しない。
 故に牟田口が敵物資集結地ディマプール侵攻を命じても部下が言う事を聞かないのは、戦前の日本陸軍では当然の事かも知れない。
 牟田口・辻・服部の親分である東条英機は、懲罰徴兵を多数行った。
 これは、陸軍上層部が戦死を恥ずかしい出来事であり、東条達陸軍上層部にとって靖国神社とはゴミ箱の意味しかないのではないかと考えられ、この様な話を当時の日本国民が知っていれば、日本陸軍は遥か前より完全に崩壊しているのではないかと考えられる。
 牟田口がすべきは、安全な地ではなく、部隊と共にいれば、少しは勝つ可能性が存在したと言える。
 この牟田口・辻・服部・東条等の行動を見ていると自民党の議員や民主党の反小沢と言われる議員や社民党の議員達は、戦前の旧帝国陸軍陸大歩兵科卒業者達の忠実なる弟子と言って良い。

 今でも、戦前の陸軍が行った盧溝橋事件以降の日中戦争並みの中国感(漢民族感)しか有していない。
 米軍の沖縄県外移転が失敗したのは、鳩山政権や歴代自民党政権が、「能無しの本質」
と同様に短編集の様に物事を進めた結果である。
 鳩山政権は、沖縄以外の移転とは佐賀空港を海兵隊基地にする事が同じ意味である事を理解していなかった為失敗したのである。

「太平洋戦争」は無謀なせんそうだったのか ジェームズ・B・ウッド著

 太平洋戦争はまったく勝てる可能性の存在しない戦争であったのかという課題の書籍である。
 戦略・戦術上は勝つ事は無理でも、有利な形で講和を結ぶ事は可能であった戦争であると私は考えている。
 但し、政治的には純軍事分析上は講和を結べる戦争であったが、戦争当時の日本陸軍の組織的崩壊や海軍の艦隊保全主義と艦隊決戦主義という、相反する思考を思考すると、日本は太平洋戦争に勝てなかったと言える。
 基本的にこの著者のいう事は、戦後直後に石原莞爾が、語った内容と基本的に同一の話であり、私自身も真珠湾において通告遅れが起きず真珠湾において石油備蓄設備を破壊し、南方資源地帯を確保後、防戦に勤めれば、ドイツ戦が終結するので、ソ連の台頭を頭の片隅に入れれば、日中戦争以前の国境ラインを日本が飲めば講和は可能であったと考えられる。
 ここで問題になるのは、太平洋戦争開戦における東条一派の将校の理屈である。
 “日中戦争の英霊に申し訳ないので、占領した領土は返還できない”という理屈である。これは、絶対国防圏まで占領した日本陸軍は、日中戦争以前の国境ラインに戻せと言えば、“太平洋戦争で戦死した英霊に申し訳ないので、太平洋の占領した地域を返還できない”という理屈が通るので、当時の陸軍内の思考でいけば、全世界を自国の領土にしなければすべて英霊に申し訳ないという理屈になるので、講和を結ぶ可能性が存在しても、講和を結ぶ事は不可能である。
 日中戦争から太平洋戦争期間中の東条一派の将校達の行動と思考は、戦争を自己の欲望の為の道具にしたとしか考えられない。
 勝つために最も合理的行動を行ったのではなく、自己の強欲の為に国民と国家を犠牲にした戦争が日中戦争から太平洋戦争終結までの期間の東条一派の将校達の思考と行動である。
 この点が端的に表れるのが、東条の東条批判に対する行動である。
 陸軍きっての将軍である石原莞爾は、太平洋戦争期間中ずっと予備役のままだったし、東条批判を行った松前重義を東条の大好きな手法である懲罰徴兵と呼ばれる方法で徴兵し、戦場に送りだしたり、軍人は戦場にでて戦うのが仕事のくせに、批判的な将校を最前線に送り込むという方法を使用している。
 これは、東条は敗戦を作り出す為に首相を勤めていたというべきである。
 戦場に出て活躍しそうな将軍は予備役に編入し、国の産業政策に役立ちそうな官僚を戦場に送りだし、負けそうな将校は戦場に送りだし、出世させたい子分には失敗には目をつぶるという方式なので、純軍事的には勝つ可能性のある戦争を東条一派の将校達がよってたかって敗戦を作り出したと言えるのが太平洋戦争である。
 これは東条一派にとっては、国家の命運より自分のメンツを重視し、仲間が失敗すれば庇い、仲間以外が失敗すれば自殺を強要するというのが東条一派の資質である。
 講和を結ぶ為には、条件を想定しなければ出来ないが、太平洋戦争を開始する時に、東条は、もし満州を明け渡す事はこれまで戦死した幾十万の英霊に申し訳ないという理由にならない理由で反対した。
 講和は相手があるため、妥協できる点で妥協するのだが、この行いが東条一派には全く出来なかったため、同じように対米講和には東条一派の将校達の反対によって潰される可能性が非常に高い。
 この事は、アメリカと講和を結ぶチャンスを東条一派は間違いなく叩き潰す事が言える。これは、現在の社民党福島瑞穂党首をはじめとする社民党議員や支持者達と全く変化のない思考であり、自己の欲望の為には国家を売り渡しても構わないという東条イズムに犯された人々が反対する為、日本政治が止まっているように日本政府はアメリカが講和を申し入れても受け入れる可能性は全くないであろう。
 また、講和を生む為の作戦である防衛政策もやはり、東条一派の陸軍将校達が勝手に陸軍を東南アジア各地で動かすため、防衛ラインは東条一派の陸軍将校により破壊される可能性の方が高い。
 現実的に日中戦争の講和を結ぶ為に和平交渉をしている最中にこのまま講和が結ばれれば、それまで戦果をあげていない自分は勲章を貰えないと思考した東条一派の陸軍将校が勝手に部隊を動かしたという例が存在するので、陸軍の東条一派の将校に戦略や戦術に基づいた作戦の順守という事は不可能であるので、海軍がもし防衛ラインの保持に動いたとしても、陸軍が防衛ラインを破壊する為、結果的には防衛ラインを作る事が出来ず、結果的には戦略・戦術上勝利の可能性が存在しようと東条一派の将校たちが自己の栄達の為に勝手に陸軍部隊を動かし、この事が作戦の成立を阻止する事になるので、作戦としては成立する可能性は殆ど存在しないため、東条一派の将校達全員を死刑にしない限り、日本が勝ったり講和を結ぶ可能性は全く存在しないと言える。

2010年5月 5日 (水)

この国を動かす者へ 佐藤優著

 チベット問題を大規模な暴動を予測するものは少なかったと佐藤氏は述べているが、P236からある分析の誤りに関して佐藤氏は記しているが、この誤りの根幹をなしている部分の認識が佐藤氏自身認識していない。
 この佐藤氏の認識の誤りの基本は、私が“堺屋太一シンドローム”と称するものである。これは、何かと言えば、堺屋氏の方式とは、井上靖氏や司馬遼太郎氏・陳瞬臣氏等戦前に高等教育を受けた人々と教養課程において、アジア的思想が完全に抜け落ち、西洋的知識をそのままの形で日本・アジア情勢に当てはめると言う方式である。
 戦前に高等教育を受けた人々は、基礎段階でアジア的哲学思想の上部に西洋的哲学思想が乗り、西洋的知識のベクトルを変える事が可能であったのに対して、堺屋太一シンドロームに罹った患者達は、西洋的知識をそのままの形で当てはめることになる。
 堺屋氏が、団塊世代理論を作りながら、団塊世代が理論通りの行動を行わなかったのは、この団塊世代理論の前提条件となる西洋型都市を日本は作ることがなかったのに西洋型都市を作った如く日本に当てはめた結果、団塊世代は団塊世代として機能せず、逆にそれ以前に生まれ、戦後が少年期から青春時代であった人々が機能したのは、日本は西洋型都市を一度も作らずに村落共同体しか作った事がない事に由来しており、これは戦前の陸海軍将校が犯した誤りと基本的に同じ誤りである。
 故にある意味、堺屋氏も佐藤氏も基本的に東条英機に連なる知識人脈と言える。
 この佐藤氏の誤りの基本的部分は、多くの国民が有しているのである。
 韓国人の嫌な所としてあげてくるのは殆ど朱子学的要素でしかないし、漢民族の嫌な点としてあげてくるのは儒教的要素と礼学的要素であり、戦前に高等教育を受けた人々であるのならば、常識の範疇に入ることが完全に抜け落ちているのである。
 佐藤氏の書くアジア分析には、朱子学的要素や儒教的要素は一切入っていない。
 アジア的哲学思想を知っておけば、中国が経済発展を遂げ始めると初期段階で周辺民族との内乱状態になり、後期段階で太子党に連なる人々とそれ以外の人々の間で対立が発生し、この時、中国が経済的に混乱状態にある場合、内戦状態に突入するのである。
 この過程を証明したのが、天安門事件である。天安門事件において、西南海は、学生を弾圧するのに本来北京市を守る部隊を派遣せず、内モンゴルの部隊を派遣したのは、中国には基本的に内戦発生が起きる事を示す条件である。
 現在の中国は、春秋戦国時代に管仲などがなそうとして失敗したカイメイが成功した状態にあると見るべきである。
 中国史において繰り返し行われて来た事は、周辺民族鎮圧する部隊が巨大化して中央に反乱を起こすか、周辺民族自体が中央政府を脅かすか、中央政府が機能せずに地方が分裂状態になり内戦を起こすかという、大まかにわけて3通りのパターンが存在し、これは西洋史に見られないものである。
 西洋には中国の様な巨大帝国などは存在しないのである。
 故に西洋史や西洋哲学に詳しくなれば詳しくなるほど、現在の様な教育システムにおいて優秀な成績を収めた人々は誤るのである。
 佐藤氏の過ちの基本は、彼が現在の教育システムにおいて非常に優秀な人であることの証明でもある。
 この佐藤氏の様な人は、日本を含むアジア全域においては思考ミスを犯さないという良さがある。これより1ランク低い、荒巻義男(紺碧の艦隊の著者)等レベルになると日本的八百万の神々の思想の上に西洋的哲学モドキがのるため、荒巻氏の様に、作品で南樺太をユダヤ人国家にすると、ユダヤ人はこの南樺太こそ神が与えたものであると思考すると考えると思考するのだが、日本の八百万の神々の様な融通無碍な神ではない神を信仰するユダヤ人は荒巻氏等の様な思考は一切持たないため、佐藤氏より1ランク落ちる荒巻氏レベルだと全世界で誤りを犯すのである。
 戦前の日本において、井上氏等レベルが傍流に追いやられ、佐藤氏等レベルと荒巻氏等レベルの対立が発生し、最終的に荒巻氏等レベルが勝利し、日本を滅ぼそうとしたのである。
 佐藤氏は、テロとの戦争、私はこの呼び方は嫌いである。何故ならばテロとの戦争に勝てる兵器の選択肢は核兵器以外存在しないからである。
 核兵器を使用せず、地域限定であるならば、オーストラリアに住む白人をアフガニスタン・イラク・イラン・パキスタンに移住させ、「タスマニア人(人類史上唯一絶滅した民族・オーストラリアに住む白人が趣味として殺し絶滅させた)化作戦」を実施する以外に方法論は存在しない。
 P258にある西山事件は、密約の是非ではなく、密約の入手方法が問題視するというので、密約があろうとなかろうと西山氏は有罪になり、国家賠償は認められないであろう。
 田中森一氏に関しては、この国ではエスタブリッシュメントとアウトローが結びついているというが、これはこの国だけではなく、この世界での誤りである。
 何故ならば、川は上流になれば上流になるほど、下水と上水の区別はない。

ロシア・中国・北朝鮮 猛毒国家に囲まれた日本 宮崎正弘・佐藤優共著

 前書きにある佐藤氏の「天皇のいない日本は、日本の抜け殼だと」と記しているが、これは認識の誤りで、基本的には天皇は関係なく日本は抜け殻状態にある。
 厚生省事務次官経験者を殺した人は、犬を殺された事を恨みに思い殺した。
 即ち、日本では現在、赤の他人の命より犬の命の方が重いのである。また、昨今の重過失犯罪は全共闘世代とその子供達の世代で著しく高い。
 職場で叱られた恨みを晴らすのに歩道橋を歩いている親子の子供を奪い、そのまま歩道橋の上から地面に叩き付ける人も出てくる始末である。
 厚生省事務次官を殺した人と歩道橋から子供を投げ落とす人と電車で化粧をする人の差は本質的には一切違いはない。
 自分と近い関係にある人以外は全て単なるモノと変化がないのが現代日本社会の特徴である。
 30年ほど前に犯罪を犯した子供に対して両親が“内の子に限って”という科白を言ったのは、その家庭が崩壊している事を示しているのである。
 崩壊しきった全共闘世代の人々の家庭に育った子供達は、大人になり簡単に人を殺しているのである。
 その前兆現象が、マット圧死事件であったり、女子高生のコンクリート詰め事件であったり、葬式ごっこである。
 佐藤氏は、戦前の日本と戦後の日本が全く違う社会であることを認識していないし、その一つの象徴が佐藤氏の様な存在と言うか家庭である。
 佐藤氏の母親は久米島出身で、父親は東京出身である。
 現在では、この様な婚姻はごく普通に行われているが、戦前では故郷を捨て、親の死に目に会えない婚姻であった。
 この典型例が、持ち家制度である。
 現在の様に田舎から出てきた人が、都市部に出てきて持ち家を持つという思考自体が戦後出てきた現象である。戦前においては、三井本社や三菱本社に勤める重役であっても借家住まいがごく普通で、結婚相手は出身在所近隣の女性を妻にし、成功を収めると故郷に戻るのである。戦前において都市部に出るのは“故郷に錦を飾る”事であり、この故郷に錦を飾れず、故郷に戻ることも出来なかった人々が江戸で裏借家人になったのである。
 戦後最大の死語は“故郷に錦を飾る”である。
 戦前においては、両親は共に出身在所は近隣である為、子供達も帰る故郷が存在したが、では現在において、佐藤氏が錦を飾る故郷は何処にあるのかである。
 天皇制の基礎である村落共同体は現在完全に崩壊し、その村落共同体の変わりをなした企業は、長引く不況と人類史上類例なき無能さを発揮する全共闘世代により、会社は村落共同体の役割を放棄した。
 会社が何故、終身雇用・年功序列制度を引いたのかという意味を完全無能世代である全共闘世代と言うバカ集団は理解する事が出来なかったのである。
 この制度は、企業が村落共同体の代わりをなす制度であると同時に、全共闘世代位バカでも企業経営が出来る仕組みなのである。
 村落共同体では、ちょっと頭の悪い名主が現れても優秀な手代を使う事で、上手く村落を経営すると同時に、村のあらゆる事を村落共同体が一丸となって行うという仕組みであった。ここでの問題は、父親の共同体と母親の共同体は別物で、そして子供の共同体も別物である事が、種々の犯罪の温床になった。
 バカが社長になっても機能する制度が終身雇用・年功序列制度であったが、完璧なるバカである全共闘世代は、政府や企業でこの制度を破壊しながら、システム変更を行わなかったため、日本経済は没落傾向にあるのである。
 村落共同体の崩壊が天皇の崩壊と直結しているのである。
 故に現在日本における家庭とは、父親と母親は、完全なる赤の他人であり、その両親から生まれた子供も両親にとっては赤の他人である。
 日本社会において赤の他人とは、モノ以下の存在でしかない。
 不要なモノを破壊するのに良心呵責は受けないので、人は簡単に人を殺すし、友達と一緒に食堂で食事を出来ない人はトイレで食べる他ないのである。
 戦後史とは、日本社会が戦前まで作ってきたモノを全共闘世代を中心とする人々が徐々に砂山の砂を少しずつ崩していく歴史であり、現在日本はその最終段階にあると言える。故に物理的に天皇制を破壊しなくても、天皇制は崩壊過程にあり、現在はその最後残滓が残っている状態にあると見るべきである。
 欧米社会には強い宗教が存在する為、キリスト教という共同体に入る為、企業が共同体になる必要性は一切存在しないが、日本社会には古来より宗教性が弱い結果、常に共同体が人々にとって全存在になるため、日本では常に目的合理的に作られた組織が不条理さを有する共同体に変化するのである。そして共同体の掟は、あらゆるモノより優先するのである。
何故ならば、共同体そのものが日本人においては神なのである。
佐藤氏が批判する、外務省の犯罪行為は、外務省という共同体においては法律より上部に存在する掟なのである。
何故、外務省に外交能力が存在しないかと言えば、外交能力と言う目的合理的なモノよりは外務省の共同体という方が重要なのである。
故に外務省の非世襲キャリア官僚は、妻は世襲キャリア官僚の娘を妻にするのである。
日米同盟に関しては、私自身も日米同盟を支持している。
理由としては、日本は漢民族を相手にするには余りにも非政治的である。そしてもう一つの理由は広大な太平洋を挟む日米同盟は、それ自体が世界に対して影響力を有することになり、日米同盟の破棄は、アメリカの世界覇権の終止符を打つことになり、それ自体が世界をより混迷の事態に巻き込み、現在のアメリカ中心の世界から誰が中心か分からない状態になり、世界各地で戦端が開かれても、それは誰にとっても無関係なモノにしかならず、世界中で代理戦争が行われる事になる可能性が高い。
世界中の人が自分の短絡的利益しか追い求めないというある意味福島瑞穂化し、それは第3次世界大戦にしかならない。
これを食い止める方法としては日米同盟が、世界にとって重要である。
世界のある意味の安定状態は、自由貿易でしか生きられない日本の生命線である。
第3次世界大戦推進派議員達の集まりである社会党左派の生き残りである社民党が第3次世界大戦を求めるのは当然の行為でしかない。
社民党の党是はある意味、人類滅亡であり、その為には第3次世界大戦は必要不可欠な手段であるから、社民党が日米同盟に反対するのは党是に照らし合わせて当然の事である。
戦前の過ちは、日米が手をとり、中国に進出しなかった事である。
故に、太平洋戦争の生みの親はアメリカの鉄道王に南満州鉄道売却を阻止した小村寿太郎と言ってよい。

P42の佐藤氏の言っている「金融工学の基礎を築いたレオ・メラメッド」は完全な誤りである。正しくはシカゴのマーカンタイルという先物市場を開いた人であり、金融工学がよく先物市場で使われているだけで、基本的に金融工学とレオ・メラメッドは完全に無関係である。
佐藤氏は良く、ロシア関係に関して、きちんと調べないといけないと言っている割にはこういう事は金融関係の最低以下の基礎知識である為、佐藤氏は、金融関係はさっぱりまるで駄目なのか、それともこの出版社の校閲が出鱈目なのかのいずれかである。
また、先物市場は、江戸時代の大阪の堂島米会所が世界初の先物市場である事も最低以下の知識である。
P72に宮崎氏は、「イザヤ・ベダサンがユダヤ人との比較で書いたことですが」とあるイザヤ・ベダサンが山本七平氏である事は常識なので、この名前を出す時には、山本七平氏の名前を出さないと言っている事に信頼性が持たれなくなる可能性が高い発言である。
P73の情報という言葉に関しても、言葉を作った陸軍自体が情報を軽視しているので言葉が広がるうちに軽い言葉になるのは仕方のない事である。
P76にある天皇関連の話も戦後的匂いの強い話である。天皇とは常に現在の様に考えられる存在であろうか?江戸時代以前の日本的教養のは中国の漢籍であるため、現在の様な天皇の位置付けが過去からあるようには思えない。
P97からある憲法改正論議においては、私は現行憲法に関しては改正の必要性はないが、修正の必要性はあると考えている。理由は、憲法9条は悪用すれば、戦前の統帥権と同じものである。
即ち、憲法9条は、アメリカが日本が共同謀議を働いた結果、中国侵略やアジアへの侵略行為を行ったと考えて出来ているが、確かに満州事変は陸軍の共同謀議と言えるのかもしれないが、政府の共同謀議は行われていない。ましてや盧溝橋事件以降に関しては陸軍内の共同謀議は成立せず、勝手に陸大歩兵科卒業者達が自らの出世の為、軍を勝手に動かして中国のあちらこちらで事件を起こし、最終的に収集がつかず太平洋戦争へと突入して行った出来事であり、政府および軍が共同謀議を働いたという立証は出来ない。
故に戦前と同様に国の交戦権を否定していても、悪だくみを働く人がいれば、憲法9条は戦前の統帥権と何ら変化のないものになる。
ここで、宮崎氏の憲法論に関しては、全共闘世代固有の無能さを発揮した憲法論になっている。「日本には17条憲法と5箇条の御誓文があるわけですから、あれで十分です」という発言は、近代憲法とは何なのかを全く知らないという事を言っているだけであるが、17条憲法などは、近代憲法とは、同じ憲法という名前が付いているだけで全く違うものである。宮崎氏が言っているのは、精力を付けるのに蛆虫がいるから蝮はいらないと言っている様なものである。この辺が全共闘世代らしいと言えば、らしい発言である。
日本の憲法論議の過ちの一つは、憲法について話す人はいるが、ジョン・ロックを理解して話している人が殆どいないという点に日本の憲法論議の本質的誤りがある。
英国の様な慣習法と日本の様な成文憲法の違いは、文章にしているかしていないかの違いだけで、法律とは、基本的に全て慣習法でしかない。
よって宮崎氏の言うように憲法を破棄したからと言って、現行憲法の慣習から逃れる事はないのである。
P100にある、宮崎氏の言う中国の消費者層の見解には賛成である。私自身宮崎氏の同世代の人々の言う13億人の市場などは痴人の戯言に過ぎないと考えている。
P107にある佐藤氏の婚姻に関する疑問点は、漢民族が完璧な父系社会である事を認識していない事を示している疑問点である。漢民族にとって父親が違う人は宗族が違うので無関係な存在でしかない。宗族が同じであれば天文学的に親等が離れていても日本でいう親戚と同じである。この辺の理解力が戦前に高等教育を受けた人と戦後に高等教育を受けた人の基礎的学力差になっている。但し、私自身は戦後教育を受けているが、中学時代に日本の科挙システムから離れているので、戦前型高等教育に近い形にしているので、佐藤氏や宮崎氏の戦後型高等教育システム(陸軍型教育システム)で確実犯す過ちから少し離れている気がしている。

現代中国を近代国家として考えるのは基本的には誤りであると考えている。
現代中国は、軍閥連合国家として考える方が適切であると考えている。故に解放軍がそれぞれで個別企業体を持ったり、天安門事件で中央軍を派遣せず内モンゴルの部隊を派遣したのは、それぞれの部隊における指揮命令系統が完全に分離している為と考えられる。
中国軍とは、中国内にある幾つかの軍閥が集まり中国軍を形成していると見る方が、中国軍を正しく見る目ではないかと考えている。
P120にある北朝鮮のミサイルとは、ミサイルという名称ではあるが、実態はヒトラーがVロケットを打ち上げる前の大砲とほぼ同じようなものでただ距離が昔の大砲に比べると長いという程度の代物で、発射するにしても、日本の様に北朝鮮から見て横に長い国の場合にはなかなか当たるものではなく、逆に韓国や中国にとって脅威になるものでしか過ぎないと見た方が正確な見方であると考えている。
即ち、日本に当てようとする場合には方位・仰角を固定できる台でなければ当たらないし、ロシア・韓・や中国であれば多少方位・仰角の位置がずれていても距離が短い為、ウラジオストック・ソウルや北京を破壊できる核ミサイルという位置付けで北朝鮮のミサイルは考えるべきであると思う。
第3章の二人の対談を読んで思ったのは、現代中国を見聞した本を読んでも何の役にも立たない。逆に陳瞬臣氏や司馬遼太郎氏などの戦前高等教育を受け漢学の素養のある人の本を読むと役に立つ。
最もダメなのは、全共闘世代、特に団塊世代の書いたのはまるで駄目である。
何故ならば、全共闘世代の最も思想的影響力が強かったのが毛沢東であり、団塊世代の学生運動などは、もろに四人組の文革の影響を受けたとしか思えず、書いたり話したりしているのを聞くと隠れ毛主義者以外の何物でもないため、巨大なフィルターがかかっているため、資源の無駄遣いにしかなっていない。
完全白痴世代である文科系大卒全共闘世代のすることは、何一つまともな事が出来ないというだけの話である。
2-3年前に上海に行くとテレビ・新聞・雑誌で出ている話は単なる与太話にしか過ぎない事が見えてくる。
例えば、歩行者に関する話も、東京の様な効率が以上に悪い都市を基準にするため、東京と比較する話になるが、これでは歩行者一つとってもまともな見方が出来ない。
東京の半分ボケ老人の様な歩行者と機を見るに敏な歩行者を比較すると異様さが出てくるが、同じく機を見るに敏な西日本の歩行者と比較するとそれほどの差は見えない。
漢民族が現世思考であるのは、陳瞬臣氏や司馬遼太郎氏の書いたものを見るとそんなのは腐るほど出ている話だし、漢民族の商習慣も同じである。
故に漢民族には工業社会は基本的には向かないし、当然巨大海軍を運営する能力にも大幅に欠ける事は別に不思議な話ではない。
上海のTV塔に行った時、周りのフェンスは4-5mみるとそのどれも良品はなく、不良品でありながら収められている。新聞・テレビ・雑誌の記者や学者・コンサルタント達は、この辺を見ない。
高速道路には緑化の為にプランターが置いてあるのだが、どれ一つ落下防止策が取られていない。
これだけで漢民族には品質と安全に対する思考が存在しないという事になる。
この二つは、工業国にとって重要であるばかりではなく、現代の海軍を運営するにも必要な能力であり、漢民族が如何に巨大な海軍を作ろうとも漢民族が運営する限りgにおいて、張り子の虎にしかならない。
即ち日清戦争当時、艦内で洗濯物を干していた清朝海軍と現代中国海軍に基本的変化は存在しないと言える。
P158から続く、中国・ロシア・日本に関する話は要約すれば、3カ国とも資本主義の国ではないというだけの話である。
P162の佐藤氏の言うロシアの話は、プロテスタントが成立する以前のヨーロッパでは良く見られた光景である。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の何れの宗教も金貸しという仕事を蔑み嫌っていた。この為、欧州で金貸しと言えば基本的にユダヤ人で“ベニスの商人”のシャイロックもユダヤ人である。
儲けるという行為が問題にならなくなるのは、プロテスタンティズムの成立以降であり、しかし、儲けても質素な生活を忘れないというのが理想的プロテスタントでもある。
そして漢民族の儒教は現世救済の宗教である。死後のは殆ど道教の影響下にある。
キョンシーや閻魔大王・三途の川等はすべて道教である。この辺を押さえない日本人の文科系評論家は多数いるが殆どが全共闘世代でもある。
P172の宮崎氏と佐藤氏の認識では、欧米が資本主義国家であり尚且つ近代民主主義国家であるならば、全世界は資本主義国家と近代民主主義国家しか存在しないと思考しているようにしか見えないが、二人が語っている北朝鮮・中国・ロシアの3カ国はどれも中世の国家であり、人々の思考に資本主義や近代民主主義など欠片も存在しない。
この3カ国を初めとする全共産主義国家群が失敗した基本条件はマルクスの言う所の資本主義的な蓄積を一切持たなかった事にある。
3カ国とも単なる中世の国家であると考える方が認識として誤りが少ないと考えられる。
出来の良い秀才がやる過ちは教科書に書いてある事は全面的に正しいと思考する所にある。教科書にあるのは現在考えられる定説に過ぎない。
故に教科書にある人文系定説は、常に全て覆る可能性の非常に高い説に過ぎない。
ここで論じている宮崎氏に関して言えば、法思想の理解力から言えば、どう見てもジョン・ロック以前の人である事はほぼ間違いのない事である。
故に宮崎氏が2010年の世の中に住んでいるからと言って、彼の中に近代資本主義や近代民主主義は宿っておらず、単なる中世のままの思考で現在を生活している人でしかない。
P175のレフ・グミリョフの「ロシアというのはモンゴルの末裔で、モンゴル人の感覚を保持している帝国」というロシア感は賛成である。
私自身のロシア感は「母親が中華帝国が生み落とし、欧州というファザー・コンプレックスの塊」という認識であり、ロシア人が近い認識を有しているのは嬉しい出来事である。
P177の宮崎氏のいう中国感は、余りにも変な認識である。
元々の中華思想は、中国というのは全宇宙の中心にある国であり、他の国々は全て中国より劣った国であるという中国自身の思想から言えば、国家目標などはないのがごく普通の出来事である。
中国が行いたいのは、あくまでも失われた全宇宙の中心たる中華思想の復活である。
中国にとってはこの150年位の歴史が異常な事態であり、今の状態は失われた中華帝国の復活過程であるし、その中華帝国には、そもそも人権などという概念自体が存在しないものである。
P189からの宮崎氏の言う中国王朝論はある意味正しい認識である。基本的に共産党中国と清朝との違いは、皇帝が世襲から簒奪制若しくは任命制に変わっただけでと見るのか、私が考える様に共産党中国とは軍閥連合国家であり、私が考える様に春秋戦国時代の管仲がなそうとした会盟が成立しただけで、その盟主が国家主席という肩書を得るのだが、常に他の有力諸侯が現在の盟主を追い落とし、自分自身が盟主となるか自分の都合のよい人を盟主とするのかというシステムではないかと考えている。
私の認識が正しいにしても、宮崎氏の認識が正しいにしても、どちらにしても現代中国とは単なる中世でしか過ぎないので、宇宙開闢以来の能無しである団塊世代の白痴の頭脳が妄想する共産主義などは欠片も存在しない事だけは確かなようである。
P192で述べている佐藤氏は、どうしても近代的な思考で当てはめようとしているが、これは単なる免罪符が販売されていた中世の欧州と何が違うのかである。
ロシアを近代国家と見るのは誤りで、単なる中世の国家と見るべきではないのか?
ロシア人が、食料を備蓄する話も貨幣経済がロシアにはまだ成立しておらず、実質的には物々交換が基本の社会であり、周辺諸国が貨幣を有しているからルーブルという紙幣を発行しているだけで、貨幣経済はロシアでは単なる蜃気楼の様なものではないのか?
貨幣経済が成立している国家においては、人が完全な記憶喪失になり、自分の名前などあらゆるモノを忘れても、貨幣の数え方は記憶しているのが貨幣経済が成立している国での記憶喪失患者の特徴であるが、ロシアでは記憶喪失になると貨幣の数え方も忘れるのではないのだろうか?
P200にある宮崎氏の“日本人の中国理解は、なぜ間違ったか”というテーゼに関しては、知識人的には吉川幸次郎や貝塚茂樹なのかもしれないが、一般的には隠れ毛沢東主義者の文科系大卒全共闘世代であると言える。
宮崎氏の同世代の弘兼憲史氏が島耕作シリーズで描く中国は、青春時代の幻想としての毛沢東主義を通してしか見ていないし、宮崎氏当たりでは常識的な道教や儒教などの最低レベルは全く存在せず、単なる幻想としての毛沢東主義を通してみる中国像が、現在マスコミを通じて流れている中国像である。

ユニクロは負け組の中の一時の勝者

 ユニクロは勝ち組企業だと言われているが、実際の所は、負け組の中の一時期利益を上げている会社に過ぎず、将来は完全なる負け組にしかならない。
 そして、決してZARAには勝てず、中国の会社に負ける運命にある会社である。
 何故ならば、ユニクロの行っているのは、これまでの日本の衣類メーカーが行ってきた事と何の違いもない会社であり、そして中国の会社が真似ればスタッフの人件費の高さがネックになり中国の会社に負ける事になる。
 もし、ユニクロがこれまで通りの方式で行うためには、日本企業である事をやめるしか手は存在しない。
 ユニクロは、ジル・サンダーを買収したが、これは昔レナウンがアクアスキュータムを買収した事と何が違うのであろうか?
 即ち、ユニクロの行っている事は、中国の会社にも確実出来る事である。
 この時、差が出てくるのは、ユニクロのスタッフの人件費や日本の出来の悪い航空行政などがユニクロの致命的欠陥になるため、ユニクロは本社を日本から海外へ移転し、スタッフも人件費の安い国の人々に変えなくてはならない。
 この点がZARAやGAPといった会社と基本的な相違である。
 ニトリがIKEAに絶対に勝てない理由と同じである。
 IKEAが世界的に知名度のある北欧家具のイメージを売っているのに対して、ニトリが日本を売っていない様に、ユニクロも日本を一切売っていない点であり、日本を売れないユニクロは、最終的に日本国内では食べれず、海外へ移転するしかない。
 より経営効率の高く、スタッフの人件費の安い国に負ける事になる。
 これは、負け組企業の共通項と同じであるため、ユニクロも負け組企業という集合体に入る会社でしかない。
 負け組企業の共通項とは「技術で勝って、ビジネスで負ける」である。
 これはファッションも同様で、日本は「KAWAII」の発祥の国であるが、「KAWAII」で食べているのは日本のファッションメーカーではなく、海外のファッションメーカーであり、ユニクロは「KIMOI」の代表格である。
 「ユニバレ」とは「KIMOI」でしかない。
 日本のファッションメーカーが勝てない原因は「KAWAII」国の「KIMOI」ブランド故である。
 ユニクロはたまたま日本にある会社で、現在の主要生産拠点である中国の会社に確実に負ける会社である。

普天間移設問題

 この問題の解決策は、佐賀空港への移転だけである。
 これは、最初からキャンプシュワブ沿岸案か佐賀空港なのかの二者択一問題である。
 それ以外の選択肢は存在しないのである。
  故に鳩山政権がキャンプシュワブ沿岸案を否定した後は、佐賀空港以外の場所は一切存在しなのである。
 故に他の案を検討するのは時間の無駄以外の何者でもない。
 如何に佐賀空港を民間用としては、廃港にし、米軍基地にするしかないのである。
 この為には、今秋の仙石や枝野が仕切った事業仕分けの主眼は、全ての佐賀県内の公共工事は完全に凍結する事を事業主分けの目的にし、前原は、ANAと調整し、佐賀空港からの撤退を話し合い、国土交通省所管の全佐賀県内の事業を停止もしくは廃止する。
 赤松農林水産省は、農林水産省所轄の全佐賀県内の事業の停止・廃止を実施、佐賀県の米軍受け入れを行わなければならないのに、ユダ前原や赤松は大臣になれたのがよほどうれしかったのか、大臣になった喜びをかみしめるだけで何もせず、特に前原氏は、大臣になってから現在に至るまで如何に自分は憲政史上最も無能な議員兼大臣である事を証明する事だけに精力を傾けてきた。
 前原は、何が安全保障の専門家だ、草葉の陰で高坂が号泣しているぞ!
 前原氏は、石破と同じで単なる兵器オタクでしか過ぎない。しかし、日本では兵器オタクを軍事ジャーナリストと呼ぶ国なので、単なる兵器オタクが安全保障の専門家と名乗ってもおかしくはない。
 日本では、クラウゼヴィッツの欠片も理解できなくても、「失敗の本質」なんていうタイトルの本を出す人もいる。
 本当に反小沢という呼び名を止めて民主党馬鹿連合という名前に変えるべきである。
 佐賀県県内では神埼市市議会が反対を決議したが、普天間以外の移設先で米軍が納得できる移設先は佐賀空港をおいて他はないのである。
 後は、佐賀県が受け入れる環境を作るだけである。
 佐賀県の様に公共事業に頼り切っている県を煮ようと焼こうと好きに出来るのである。
 辺野古沖のメリットは県内の土建業者の砂利事業である、これ以外の辺野古沖にメリットは存在しない。
 そして、沖縄基地問題とは、沖縄県民全員バカという本質問題でもある。
 何故ならば、今回の問題で沖縄県民以外出てこない所が、沖縄県民全員バカを証明しているのである。
 もし、沖縄県民に脳みそが存在すれば、海外の環境NGOを引き込んだ活動にすべきである。
 沖縄県民の問題点は、日本の沖縄という意識しか存在しない点にある。
 世界の沖縄という視点を有すれば、全く別の風景がそこには存在する。
 世界有数の海洋リゾートであるという視点を持てば、全く別の風景が存在する、これは北海道が世界有数のスノーリゾートで尚且つ安近短(通常は安い費用で近くの観光地に短い日程で旅行する形態であるが、ここでは安全で近くに種々のプレイスポットに近く、飛行場と目的の施設に近いという意味の安近短である)なリゾートである。
 北海道の場合は、スイス・カナダ等のスキーリゾートと同質の雪質をこれらのリゾートより余りにも近く、そして日本にある為安全で、世界中の食べ物が食べられるというメリットが存在する。
 この同一条件を沖縄は海洋リゾートという事で持っている。
 北海道の場合は、たまたま9.11事件が発生し、それまでカナダなどのスキーリゾートに行っていたオーストラリアの人々が、北海道にスキーに行く事で世界で知られていなかった北海道という世界トップクラスのスキーリゾートを発見し、この結果世界中の人々が北海道を知る事になったのだが、沖縄の場合はこの北海道と同じ事を海洋リゾートという事で真似れば良いのである。
 沖縄をアメリカ人や世界中の環境NGOに世界有数の海洋リゾートであり、尚且つ世界有数の海洋生物の宝庫である事を知る事は、沖縄の米軍問題をアメリカ人や環境NGOが知ることになる。
 これは沖縄の基地問題や環境問題をアメリカ人と共有する事になる。
 沖縄県民とアメリカ人との問題意識の共有が、沖縄の基地問題の解決策であると言える。
 
 日米安全保障条約は、日本にとっては生命線である。
 何故、生命線かと言えば、日米安全保障条約が存在し、日本に米軍基地が存在するため、アメリカは世界中に軍事展開出来るのである。
 米軍が世界中に展開できる事は、日本が行う世界中への安全な輸送路が確保出来、これは日本にとって不可欠な自由貿易経済が守られる事になる。
 社民党の福島瑞穂氏や土井たか子氏が言っている発言は、戦前東条英機が言っていた発言と何ら変わる事はなく、彼らは忠実なる東条英機の子分以外の何物でもない。
 東条の子分とは、世界の状況を一切無視し、自己の都合だけを押しつけて行く方式である。
 これは土井たか子以来の社民党の党是である。
 故に社民党の党の目標は世界を戦争の渦に巻き込み世界中で戦争を支援する行為と言って良く、社民党の党員と党友や支持者達は世界人類を滅ぼす事と言って良い。

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