サザエさんとドラえもん
秋葉原の事件は、父親の年齢が49歳と出ており、1958年か1959年生まれだと思われ、戦前と戦後の社会の価値観変更はもう少し幅広い世代で影響力を与えているようである。
今回取り上げるのは、サザエさんとドラえもんである。
この二つのアニメは、多くの事を見せてくれる。
舞台は共に東京であるが想定される時代は少ししか開きはないが、生活と家庭環境にはかなりの開きがある。
住宅環境で言えば、サザエさんの家は、所得倍増論以前に建てられたものであり、ドラえもんののび太君の家は日本列島改造論以前に建てられたものである。
この違いは、サザエさんのご近所の家はそれぞれが違う造りをしているのに対して、のび太君の家は建て売り住宅のため、隣近所が同じ外観になっている。
これは何を意味するのかと言えば、サザエさんの家は農地転用され一つづつ近所の大工さんが建てたものであるため、サザエさんの家には戦前建てられた家によく見られる縁側が存在しているし、作家のイササカ先生の家は大手メーカーが造ったと思われるコンクリートの打ち放しになっている。
このサザエさんとドラえもんに出てくる家から、日本の住宅というより、土地価格の変遷を見ることになる。
サザエさんの家は、港区・品川・世田谷・太田・杉並あたりに、70坪前後の一戸建て住宅であり、のび太君の家は練馬・中野あたりの40坪前後である。
波平さんとのび太君のパパは同じ様な普通のサラリーマンであり、舞台に10年以上の開きは無いが波平さんとのび太君のパパの資産にかなりの開きが出ている。
今回のテーマは、この資産ではなく、サザエさんの世界とドラえもんの世界における家族人間関係から見て、昨今多発している犯罪の多くは、サザエさんの世界からドラえもんの世界に変換したため発生した問題であることを考えてみたい。
サザエさんの世界では隣近所の人々は、我が子ではないが我が子のようにカツオ君やワカメちゃんを見守っているのに対して、ドラえもんの世代では隣近所は何をしている人なのかさえも分からない。
親と子供の関係にしても、サザエさんの世界では、カツオ君やワカメちゃんの交友関係をふねさんやサザエさんは把握しているのに対してドラえもんの世界では、父親は常に不在であり、母親は子供の交友関係に一切興味なく、興味があるのは子供の成績だけである。
故にドラえもんの世界では、子供達は常に学校の成績を気にするようになる。それに対してサザエさんでは、カツオ君やワカメちゃんの成績を気にするが、それ以上に大人は、カツオ君やワカメちゃんが人様に迷惑をかけないようにする事に注意を払っている。
例えばカツオ君が中島君から借りたモノをサザエさんやふねさんが発見したりするが、ドラえもんの世界では、ジャイアンはあれだけ周りの人々から色々なモノを奪っておきながら、ジャイアンの母親は、何故手に入れることが可能なのかに一切注意を払っていない。
これでは、ジャイアンは、ほしいモノは何でも奪えば良いという風に思考するため、彼は大人なるまでの間に保護観察や少年院の出入りを繰り返す事になることはほぼ間違いのないことである。
次に取り上げるのは、今回の秋葉原の事件の容疑者や多くの大量殺人とも関わりのあるデキスギ君である。
デキスギ君は、のび太君たちの間では出来過ぎであるが、デキスギ君集団の中では彼は、単なるのび太君に過ぎない。
ドラえもんのいないのび太君は、どこにも逃げ場がない為、のび太君は引きこもりになるか、自殺する以外に選択肢が最初からないが、デキスギ君の場合、のび太君達の中ではデキスギ君であったため、デキスギ君は、デキスギ君集団に入ることに追いやった親を恨み金属バットをふるい両親を殺すなど周囲に責任を求めて、連続殺人を行うようになる。
しずかちゃんは、マンガの中では将来のび太君と結婚するように描かれているが、現実のしずかちゃんは、大人になると、家庭内で存在感の一切存在しない父親の探しを行うため、中学から援助交際を始める可能性が高く。
社会人になると、会社の上司と不倫関係になり、略奪愛を成功するか、相手の男性を殺すか、相手の妻を殺すか、相手の男性か妻に殺されるのが、妥当なしずかちゃんの将来像と言える。
この育児放棄をし、家庭の崩壊した世界を支える存在としてドラえもんが出てくる。
このマンガのドラえもんの役割は、彼等の父親であり、母親である。
自分達ではどうしようもない事態を救ってくれる大人は一人も存在せず。
ただドラえもんがいるのである。
故にこのマンガに出てくる子供達は、現実の父親や母親や他の大人が一切頼りにならない存在であるため、子供達全員は、ドラえもんに救いを求めている。
しかし、現実の世界では、ドラえもんはいないので、頼りにならない父親や母親や他の大人達の変わりとして、マンガや非現実的な神秘現象に救いを求めるようになる。
この家庭崩壊を描いたマンガがPTAが子供に見せたい番組であることに、PTA達が現実的育児放棄連盟であることを示していると言って良い。
これに比べれば、俗悪と言われている”くれよんしんちゃん”の方が遙かにまともな家庭環境を描いている。
少なくとも、しんちゃんの母親であるミサエさんはしんちゃんをきちんと見ている。
のび太君の母親のように、のび太君への興味は学校の成績だけという事はない。
しかし、ミサエさんもしんちゃんが小学生になる頃には変質している可能性は高いので危険度は高いといえる。
磯野さんの家のカツオ君やワカメちゃんは変なことをする大人になることはないが、サザエさんがマスオさんと一緒に核家族化した場合、サザエさんのタラちゃんへの接し方を見る限り、タラちゃんはドラえもんの子供達と同様の状況に置かれる可能性は高い。
最近の家族向けアニメで、まともな生活を送る可能性が高いのはサザエさんのカツオ君とワカメちゃんとあたしんちのみかんとゆず彦君だけだと考えてしまう。
この特徴は、波平さんもふねさんも、あたしんちの両親にもいえることは、戦後的価値の中でいるのではなく、戦前的価値観の中で生活しているという事である。
父親は父親の役割を果たし、母親は母親の役割を果たし、母親は父親の権威を守ろうとしている所にある。
家庭内のある一定以上の責任は、父親が背負うという役割を常に母親が与えている。
ドラえもんの世界では父親は存在感が無いどころか存在さえしないのである。
これは、戦後日本社会は、村落共同体を否定した結果、村落共同体の一部門の役割を果たした家族も崩壊したが、サザエさんやあたしんちの世界では、両親が何とか戦前的な家庭を支えようとしているが、ドラえもんの世界では戦後的価値観が支配しているのである。
1938年から1953年生まれの人々が行った安保闘争・ベトナム反戦・学生運動に意味はないが、生物的欲求のあった運動ではある。
しかし、この年代の特に男性達は人材完全枯渇化世代であるため、自身の生物的欲求に気付くことはなかった。
このため、スローガン自身があやまっているのである。
”書を捨て、町へ出よう”がスローガンであったが、本来は”町を捨て、村へ帰ろう”であった。
しかし、人材完全枯渇化世代である彼等には、自身の生物的欲求を理解することなく、社会価値の崩壊を求めて邁進した。
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