戦前と戦後の価値観の相違
現在多くの諸問題の全ての原因は、基本的に戦前と戦後の価値体型の大幅な相違にある。
例えば、持ち家という幻想は、戦後作られた。
戦前には持ち家という考え方自体が存在しなかった。
都会に出てきた人たちの目的は、”故郷に錦を飾る”事にあった。
この”故郷に錦を飾る”という言葉こそ、戦後最大の死語と言って良い言葉である。
そういう意味で言えば、戦前は江戸時代の奉公人と基本的な違いは存在せず、江戸時代から戦前までの間には社会に連続性は存在するが、戦後、日本社会はそれまでの社会構造と一線をかくする社会になった。
この戦前までの体系を村落共同体と言う。
日本国とは日本村であり、複合された村の集合体を日本国と呼んでいた。
この日本村のため、堺屋太一氏の団塊の世代の論理が成立し得なかった。
例えば村で、田圃で働いた人たちに取って、変化時が全てである。変化後は変化された状況が淡々と過ぎていくに過ぎない。
このため、団塊の世代の論理は、団塊の世代では機能せず、その上の世代で機能した。
ソニー・ホンダ・ダイエーなどの創業者たちは、村落共同体の価値変更時代に行動を起こした、正式日本版団塊の世代と言える。
堺屋太一氏の想定した、団塊の世代の論理は、日本が欧米や中国など都市を築いた国々のみで成立する論理である。
日本で、堺屋太一氏の想定した都市は、氏のペンネームの元となった戦国時代の堺だけである。
日本には都市が無かったため、堺屋太一氏の想定した団塊の世代の論理が、その世代で一切機能せず、上の世代で機能した。
そもそも、堺屋太一氏の歴史及び社会に関する考えは、日本古典教育が欠如した以降の翻訳学者の、西洋の理論を、何も加工せず、そのまま日本社会に当てはめるという、現在まで続くトレンド的な思考である。(特に経済学者・法学者・社会学者)
堺屋太一氏が団塊の世代の論理を出した頃、ある大学教授は”二宮金次郎は泥棒である”と言っても、別に問題にされない時代の産物でもある。
二宮金次郎の背負っていた薪は里山(村の共有林)から取ってきたものであるが、この里山を知らなかったので、単に貧乏なのに薪を持っているのは勝手に盗んだと思考したのである。
戦前までの日本社会は里山制度に見られる様に、多くが共有財産=公共の持ち物であった。これは、村の子供も村の子供であって、ある家庭の子供ではないという風に思考されていたが、戦後、日本は戦前日本を覆っていた全て公共から、全て私有に変わった。
戦後の特徴は、戦前あった公共の概念が崩壊し、全私有的な思考に変化した所にある。
社会マナーの以上な低さを現在1940ー1955年生まれの男女とその子供に見られるのは、それまで日本社会を培ってきた公共の概念がすっぽりと抜けて、私有のみの思考が培われた為と考えられる。
この公共性の完全欠如は最初、女性に現れた、何故女性かと言えば、専業主婦ゆえ、社会との関わりが弱いためである。また、この専業主婦という社会寄生虫は、戦後誕生した。
1940ー1955年に生まれた専業主婦女性を90年代、オバタリアンと呼ばれた。この作品中ごく普通の人としてかかれていたオバタリアンの亭主は定年後、暴走老人と呼ばれている。このオバタリアンと暴走老人の子供が、学校現場お騒がせの給食費を支払わないモンスターペアレンツである。
両親が突如、全ての社会常識を欠如した存在として出現したのか?
一つの仮説を紹介しておく。これは大脳生理学者の見解である。
生まれてからおおよそ8歳くらいまでの期間で、前頭連合野の形成を行う。この前頭連合野の形成不全の為発生した人格若しくは行動障害を集団になった。
この前頭連合野の形成への阻害要因となったのは1945年の敗戦である。
この敗戦により、それまでの価値観が崩壊り、社会的混乱のため、本来問題なく形成される前頭連合野の形成に阻害を受けたため、ある条件を有する人たちの多くが前頭連合野の形成に阻害を受けた結果、人格若しくは行動障害を起こす結果となった。
これは、ある意味、性転換の問題と同じである。
何故外見が男性の人が女性になりたいのか、それは、母親の胎内にいるとき、男性ホルモンを受けるべき時期に、母胎にストレスがかかり受けれなかったため、脳は女性のままとなった。
聖書では、神は最初男性を作り、その後女性を作ったと書いてあるのを受けて、フェミニストは神様は”男性の余りにも出来の悪さに腹を立てて女性を作った”と言っていたが、神の実際の行為は逆であった。フェミニストは何を言うのだろうか?
では、全てのストレスを受けた母胎の子供が全て、脳が女性化するわけではない。
女性で男性になりたいという、人に関しては、私自身は刷り込みだと考えているが、これも本人の責任ではない。
この性同一性障害と似た状況に1940ー1955年位に生まれた人たちは置かれている。
このため、この間に生まれた人たちとその人を親とする人たちの抱える問題点は、下式にある。
目的ー方法=0
を教育の目的であるが、彼らの問題点は常に、目的ー方法の差分が常に肥大しているという問題点がある。
差分が常に離れていることを、普通精神異常とか人格異常という。
しかし、彼らは彼らの世代だけ見れば異常ではない。
何故なら異常とは比率の話である。
1000人いて1人が異常であれば、その1人は異常と言えるが、1000人いて1000人が異常であれば、それは異常ではなく正常である。
オバタリアンはオバタリアンの集団の中では、オバタリアンとして正常である。
暴走老人は暴走老人の集団の中では、暴走老人は正常である。
初期のオバタリアンと暴走老人を作り出したのは、敗戦による価値変換の結果、前頭連合野の形成異常の結果の問題である。
戦後とは、核家族を生んだ社会である。
この核家族の誕生こそ、現代の諸問題の全てである。
例えば、戦前の一般市民の結婚は、村落の周辺地域住民同士で行われる。
これは、都市へ出てきた人の婚姻も、その出身在所の人と婚姻関係を結び、都市において、その出身在所の価値観を有して生活し、元の在所に戻る事を目的とした。
このため親戚関係は濃密に作られ、本家などという世界が成立していた。
戦後は、戦前において親の死に目にあえない婚姻関係が、ごく普通に成立するようになった。
これは、私の両親の婚姻関係も、戦前で言えば親の死に目にあえない婚姻関係である。
この結果、戦前無意識に行われた社会教育が成立しなくなったため、人々の中から、人間関係性の崩壊が行われた。
村落共同体において、共住共職関係にある、共に住む者は共に働くという行為である。近隣在所の人々も、やはり共に住んでいないが、共に働いていた。
現在都市部において、この様な地域は存在しない。
戦前が残っていたときは、周りの大人は近隣在所の子供を、自分の子供と同じように扱い、貧しい家庭に生まれながら、学業成績の良い子供を在所の金のある人が資金援助を行ったりした。
これは、戦前には若衆宿の制度の名残でもある。
若衆宿とは、ある年齢になった男性が共同生活を行い、村のしきたりを教えた制度である。
この若衆宿から、夜這いが生まれた。
夜村の未婚の女性の家に行き性交渉を行った。子供が出来たら、誰が父親なのかを決定するのは女性である。
その女性と実際は性交渉をしていなくても、女性が父親は、この男性と言えば、その男性は、その女性と結婚する。このため、村落は家が違えども、村の子供は全て、自分の家族とある意味同じ状態である。
この村落社会で、人々は父親の役割・母親の役割・おじさんの役割・おばさんの役割・年長者の役割を学んでいった。
しかし、現在の様な核家族では、人々はその全てを学ぶ事は出来ない。
この結果、人々は全ての人間関係の基本を学べずに大人になる。
また、核家族において、共住共職関係は成立しえない。
即ち、父親の社会と母親の社会は別の世界である。
子供の社会とも別の関係である。
これは、例えばサザエさんでは、波平さんや舟さんは、かつおやわかめの人間関係にある意味精通しているのに、ドラえもんでは、のび太くんの人間関係を母親は把握していないし、ましてや父親の存在感は存在しない。
このドラえもんで母親との関係がある程度まともに成立しているのはジャイアン位である。
即ち、サザエさんの世界では、いじめ問題は深刻化しないが、ドラえもんの世界ではいじめは陰湿な関係になっている。
もし、ドラえもんの世界でドラえもんがいなければ、のび太の状態は現在のいじめ問題と基本的に変わらない。
このサザエさんとドラえもんの時代は10年も隔たっていないにも関わらず、深刻な状態を作り出していると言える。
ドラえもんののび太君は、ドラえもんがいなければ、彼に逃げ場は無いのである。家にも学校にも・・・・
これが、時代がもう10年あとになりながら、けらえいこのあたしんちでは、両親が同郷の為か、みかんと柚彦には、学校に疎外感があっても、家庭に逃げ場が存在するが、ドラえもんの世界では、のび太君には逃げ場がない。
現在の日本は総のび太君の家状態にある。
のび太君は、父親がいるかいないか分からないため、父親という者を学べない。これはしずかちゃんやジャイアンも同様である。スネ夫に関しては、両親は愛情の変わりに、常に金銭で行うため、誤った親子関係を結んでいる。
このドラえもんの世界がある意味現代社会である。
子供は一人っ子で、父親は存在するのだが、存在感は存在せず、母親は学校の成績しか気にしない。
困ったら常にドラえもんという物質で対処する。
本来は、のび太君は、困った状況を人間関係の中から修正しなければならないのだが、常に困ったときは物質で対処するという事を学んでいっているのである。
PTAは、ドラえもんを良質な番組と言っているが、本来は、非常に誤った価値観を与えている番組と言って良い。
では、ドラえもんのいないのび太君は、学校にも家にも居場所がないので、疎外感から自殺するというのが、ドラえもんのいなくなったのび太君の将来だし、しずかちゃんは、家庭における、父親の喪失から年上の男性に父親を求めるため、高校生位から援助交際を始め、会社に入社後年上の上司と不倫関係から略奪婚というのが、正しいしずかちゃんの将来像だし、スネ夫は、ちょっとしたことから引きこもりになる可能性が高く。これはできすぎ君も引きこもり予備軍と言える。
これは、彼らが最初の村落共同体から離れた、世代であり、それまで村落が教えてきた社会性を学ばない最初の世代となった。
これは、地方から都会へ出てきた人だけではなく、元々都市部で生活していた人も、長屋の制度の崩壊により、長屋住民が分離した。
長屋において、大家は親と一緒という思想は、下水設備の普及と肥料の変更により大家と住民の関係は大幅に変更された。
化学肥料や金肥導入以前は、下肥(人糞)は肥料の主たるものであった。
このため、江戸時代において、長屋から出す下肥を農家への販売価格と家賃とでは、下肥の価格の方が遙かに高い状態であったので、長屋とは現在の肥料工場と同様であった。
東京から地方へ行く電車の大半は、東京から東京郊外へ下肥を運搬するために開発された路線であり、西武線は現在の主力は人員輸送であるが、現在の65歳以上の人にとって西武線はうんこ電車と別称で呼ばれるほど、下肥を輸送していた。
この下肥のため、大家は住民の背中のかゆい所をかいて上げなければ収入の下落になったため、大家と言えば親と一緒という体制が作られた。
しかし、下水設備と化学肥料の使用は、大家と住民との関係性を変え、都市の長屋文化を崩壊させた。
都市における長屋文化の崩壊は、都市住民の孤立化を生み。同時に郊外の核家族が住む住宅街も全く無関係な住民同士が無関係に生活する状態になり、都市部は中心部と郊外は完全に孤立化した個個人が一つの家に居住する状態を作り出した。
村落共同体の崩壊は、個人の孤立化を生み、この孤立化に耐えられない人々は、別の共同体を求めた。
この別の共同体が新興宗教である。
宗教の教義よりも、新たなる共同体としての宗教を人々は求めた。
新興宗教に参加する個個人に取って、大切なのは宗教教義よりも、自己の参加可能な安住可能な共同体を求め、新興宗教に参加する。
参加した個個人に取って社会的倫理感よりも、共同体の求める方向性が重要になってくるため、結果的にどのような悪辣な行為と化しても、共同体の求めに応じて行動することになる。
この参加した共同体は、共同体そのものが全宇宙とも言える存在である。
これは、日本型組織の抱える現在最大の問題点と言える。
本来機能的組織が村落共同体と化すため、組織はその機能性よりもその内部構成員の人間関係が、組織利益よりも優先される。
これは、文藝春秋の10月号で、日本海軍とアメリカ海軍の相違に関して論じているが、余りにも表層的内容であったが、この本質的な違いは、本来機能組織であるものが、機能組織を除いた共同体になるために発生する諸問題である。
この点に関しては、社会学者である小室直樹氏の著作に論じられているので、参考にされると良い。


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