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2007年10月31日 (水)

プアマンズポルシェ思想=日産GT−R

 07年10月30日のテレビ東京を見て考えたのは、新型GT−Rは、今までの日産のスポーツカー同様プアマンズポルシェ思考で開発されたようである。
 これは、プリンス自動車時代から開発を手がけていた桜木氏が去った後の日産のスポーツカー作りの伝統の様である。
 ポルシェという名前の車のスペックをいくつかオーバーしてもスポーツカーにはならない。
 この点が、インプレッサやRXー7や86と言った車に対するオーナーの思想と日産車オーナーの思想的に違う点である。
 哲学無き車作り、これこそ日産と三菱が陥った病である。
 このテレビ番組の感想は、この”哲学無き車作り”だけである。
 この車はドイツのコースで、ポルシェのタイムを自己ベストでほんの少し越えたことで満足する開発主査、なぜ20秒台を目指さないのか、20秒台であれば、ポルシェが止まって見える車と言えるほどの早さを誇れるのに・・・
 この車は、国産車で今後発表されるであろう、レクサスレガシイーやレクサスインプレッサにとうてい及ばず、ましてエンスー達が待ち望むレクサス貴島(マツダのロードスターやRXー7の開発主査)の遙かに下をいく車作りである。
 しかし、この車はある一定以上は販売実績を残すことは間違いない。
 しかし、伝説にはならない車である。
 

2007年10月28日 (日)

法治と人治

 07年10月27日フジテレビで行っていた、たけしの日本教育白書という番組で、日本と世界で社会的責任の取り方を聞いた質問において、イギリスのキャンバリー社のチョコレートバーにサルモネラ菌が混入した問題とスピルバーグの入館証の話は、設問にまずアナウンス効果があるので、統計には一切の真実味がないが、設問そのものは、人治と法治の違いに関する設問であった。
 このため、各国アンケートで中国が人治と判断するのは、当然だが韓国が法治を選択するのは、少し疑問である。
 日本は、法治国家ではなく、人治国家である。
 日本では、法律家でも法がよく理解できていない。
 ましてや一般人は、全く理解できていない。
 日本は人治国家であるので、企業等組織が問題を起こした場合、責任者が責任をとるのである。
 例えば、スピルバーグの入館証の問題は、法治国家では、警備員がスピルバーグだからという理由で入館証がなく、入館させれば、この警備員は間違いなく解雇される。そして、警備員が訴訟を起こしても裁判所は警備員の訴えを退ける。しかし、人治国家では、入館させなければ、警備員が解雇され、裁判所も解雇が正当であると判断する。
 法治国家において、法はあらゆる階層に及ぶが、人治国家において、法はその時々で及ぶ範囲が異なる。
 また人治国家において法は、常に刑罰の過多は一定しない。
 これは、最近東京都内で流行っている路上喫煙禁止とシンガポールの路上喫煙禁止を比較すると、シンガポールは路上のあちらこちら灰皿が設置されているが東京の禁止区域には一切置かれていない。
 これは、シンガポールは喫煙を行う人は確実いる、しかし、喫煙をするのならば灰皿の置かれている所で喫煙を行い、それ以外の場所で喫煙を行えば処罰するという考え方であるのに対し、東京の場合は、喫煙を行っても良いが見つかれば処罰を行うという、法倫理もかけらもない区議会により条例を可決した。このためか、これらの区議会の議員の政務調査費の使い方は、ばれなければどんな使い方をしてもかまわないという使い方を行っている。

ゴルフ世界と日本

 日本と世界のプロゴルフ特に男性との差はかなり広いが、この理由は、日本のゴルフ場と世界のプロの行うゴルフ場の違いがある。
 昔読んだ雑誌記事によると、日本のできるでしょうが海外で勝てない理由は、日本のゴルフ場で大会を行っているからだという。
 その理由は、日本のゴルフ場は難コースで回転率(朝一番でプレーを開始し、18ホールを回って1回転で、その後もう18ホール回って2回転)が2を越えている。普通のコースで2.5でバブル期に作られたコースでは3を越えるコースもあるという。
 日本のトッププロ片山氏が難コースという日本のゴルフばでも2を越えている。
 それに対して、海外のプロがラウンドを回っているコースは、回転率で1以下のコースである。
 オーガスタで0。7とか0.8で、全英オープンの公園ではなく行うコースが0.5とかいう数字らしい。
 これは何を意味するかと言えば、日本のプロが、日本のコースでプレーをし、全英やオーガスタで勝つためには、全てのコースで最悪1オン1パット、ノーマルは全ホールホールインワンで回らなければ、海外ではまるで歯が立たない事になる。
 もし、日本のゴルフのプロたちが自分達がプロというのならば、予選ラウンドは全ホール全てホールインワン以外は予選落ちというルールで実施すべきである。
 

2007年10月26日 (金)

戦前と戦後の価値観の相違

 現在多くの諸問題の全ての原因は、基本的に戦前と戦後の価値体型の大幅な相違にある。
 例えば、持ち家という幻想は、戦後作られた。
 戦前には持ち家という考え方自体が存在しなかった。
 都会に出てきた人たちの目的は、”故郷に錦を飾る”事にあった。
 この”故郷に錦を飾る”という言葉こそ、戦後最大の死語と言って良い言葉である。
 そういう意味で言えば、戦前は江戸時代の奉公人と基本的な違いは存在せず、江戸時代から戦前までの間には社会に連続性は存在するが、戦後、日本社会はそれまでの社会構造と一線をかくする社会になった。
 この戦前までの体系を村落共同体と言う。
 日本国とは日本村であり、複合された村の集合体を日本国と呼んでいた。
 この日本村のため、堺屋太一氏の団塊の世代の論理が成立し得なかった。
 例えば村で、田圃で働いた人たちに取って、変化時が全てである。変化後は変化された状況が淡々と過ぎていくに過ぎない。
 このため、団塊の世代の論理は、団塊の世代では機能せず、その上の世代で機能した。
 ソニー・ホンダ・ダイエーなどの創業者たちは、村落共同体の価値変更時代に行動を起こした、正式日本版団塊の世代と言える。
 堺屋太一氏の想定した、団塊の世代の論理は、日本が欧米や中国など都市を築いた国々のみで成立する論理である。
 日本で、堺屋太一氏の想定した都市は、氏のペンネームの元となった戦国時代の堺だけである。
 日本には都市が無かったため、堺屋太一氏の想定した団塊の世代の論理が、その世代で一切機能せず、上の世代で機能した。
 そもそも、堺屋太一氏の歴史及び社会に関する考えは、日本古典教育が欠如した以降の翻訳学者の、西洋の理論を、何も加工せず、そのまま日本社会に当てはめるという、現在まで続くトレンド的な思考である。(特に経済学者・法学者・社会学者)
 堺屋太一氏が団塊の世代の論理を出した頃、ある大学教授は”二宮金次郎は泥棒である”と言っても、別に問題にされない時代の産物でもある。
 二宮金次郎の背負っていた薪は里山(村の共有林)から取ってきたものであるが、この里山を知らなかったので、単に貧乏なのに薪を持っているのは勝手に盗んだと思考したのである。
 戦前までの日本社会は里山制度に見られる様に、多くが共有財産=公共の持ち物であった。これは、村の子供も村の子供であって、ある家庭の子供ではないという風に思考されていたが、戦後、日本は戦前日本を覆っていた全て公共から、全て私有に変わった。
 戦後の特徴は、戦前あった公共の概念が崩壊し、全私有的な思考に変化した所にある。
 社会マナーの以上な低さを現在1940ー1955年生まれの男女とその子供に見られるのは、それまで日本社会を培ってきた公共の概念がすっぽりと抜けて、私有のみの思考が培われた為と考えられる。
 この公共性の完全欠如は最初、女性に現れた、何故女性かと言えば、専業主婦ゆえ、社会との関わりが弱いためである。また、この専業主婦という社会寄生虫は、戦後誕生した。
 1940ー1955年に生まれた専業主婦女性を90年代、オバタリアンと呼ばれた。この作品中ごく普通の人としてかかれていたオバタリアンの亭主は定年後、暴走老人と呼ばれている。このオバタリアンと暴走老人の子供が、学校現場お騒がせの給食費を支払わないモンスターペアレンツである。
 両親が突如、全ての社会常識を欠如した存在として出現したのか?
 一つの仮説を紹介しておく。これは大脳生理学者の見解である。
 生まれてからおおよそ8歳くらいまでの期間で、前頭連合野の形成を行う。この前頭連合野の形成不全の為発生した人格若しくは行動障害を集団になった。
 この前頭連合野の形成への阻害要因となったのは1945年の敗戦である。
 この敗戦により、それまでの価値観が崩壊り、社会的混乱のため、本来問題なく形成される前頭連合野の形成に阻害を受けたため、ある条件を有する人たちの多くが前頭連合野の形成に阻害を受けた結果、人格若しくは行動障害を起こす結果となった。
 これは、ある意味、性転換の問題と同じである。
 何故外見が男性の人が女性になりたいのか、それは、母親の胎内にいるとき、男性ホルモンを受けるべき時期に、母胎にストレスがかかり受けれなかったため、脳は女性のままとなった。
 聖書では、神は最初男性を作り、その後女性を作ったと書いてあるのを受けて、フェミニストは神様は”男性の余りにも出来の悪さに腹を立てて女性を作った”と言っていたが、神の実際の行為は逆であった。フェミニストは何を言うのだろうか?
 では、全てのストレスを受けた母胎の子供が全て、脳が女性化するわけではない。
 女性で男性になりたいという、人に関しては、私自身は刷り込みだと考えているが、これも本人の責任ではない。
 この性同一性障害と似た状況に1940ー1955年位に生まれた人たちは置かれている。
 このため、この間に生まれた人たちとその人を親とする人たちの抱える問題点は、下式にある。

 目的ー方法=0

 を教育の目的であるが、彼らの問題点は常に、目的ー方法の差分が常に肥大しているという問題点がある。
 差分が常に離れていることを、普通精神異常とか人格異常という。
 しかし、彼らは彼らの世代だけ見れば異常ではない。
 何故なら異常とは比率の話である。
 1000人いて1人が異常であれば、その1人は異常と言えるが、1000人いて1000人が異常であれば、それは異常ではなく正常である。
 オバタリアンはオバタリアンの集団の中では、オバタリアンとして正常である。
 暴走老人は暴走老人の集団の中では、暴走老人は正常である。
 初期のオバタリアンと暴走老人を作り出したのは、敗戦による価値変換の結果、前頭連合野の形成異常の結果の問題である。 

 戦後とは、核家族を生んだ社会である。
 この核家族の誕生こそ、現代の諸問題の全てである。
 例えば、戦前の一般市民の結婚は、村落の周辺地域住民同士で行われる。
 これは、都市へ出てきた人の婚姻も、その出身在所の人と婚姻関係を結び、都市において、その出身在所の価値観を有して生活し、元の在所に戻る事を目的とした。
 このため親戚関係は濃密に作られ、本家などという世界が成立していた。
 戦後は、戦前において親の死に目にあえない婚姻関係が、ごく普通に成立するようになった。
 これは、私の両親の婚姻関係も、戦前で言えば親の死に目にあえない婚姻関係である。
 この結果、戦前無意識に行われた社会教育が成立しなくなったため、人々の中から、人間関係性の崩壊が行われた。
 村落共同体において、共住共職関係にある、共に住む者は共に働くという行為である。近隣在所の人々も、やはり共に住んでいないが、共に働いていた。
 現在都市部において、この様な地域は存在しない。
 戦前が残っていたときは、周りの大人は近隣在所の子供を、自分の子供と同じように扱い、貧しい家庭に生まれながら、学業成績の良い子供を在所の金のある人が資金援助を行ったりした。
 これは、戦前には若衆宿の制度の名残でもある。
 若衆宿とは、ある年齢になった男性が共同生活を行い、村のしきたりを教えた制度である。
 この若衆宿から、夜這いが生まれた。
 夜村の未婚の女性の家に行き性交渉を行った。子供が出来たら、誰が父親なのかを決定するのは女性である。
 その女性と実際は性交渉をしていなくても、女性が父親は、この男性と言えば、その男性は、その女性と結婚する。このため、村落は家が違えども、村の子供は全て、自分の家族とある意味同じ状態である。
 この村落社会で、人々は父親の役割・母親の役割・おじさんの役割・おばさんの役割・年長者の役割を学んでいった。
 しかし、現在の様な核家族では、人々はその全てを学ぶ事は出来ない。
 この結果、人々は全ての人間関係の基本を学べずに大人になる。
 また、核家族において、共住共職関係は成立しえない。
 即ち、父親の社会と母親の社会は別の世界である。
 子供の社会とも別の関係である。
 これは、例えばサザエさんでは、波平さんや舟さんは、かつおやわかめの人間関係にある意味精通しているのに、ドラえもんでは、のび太くんの人間関係を母親は把握していないし、ましてや父親の存在感は存在しない。
 このドラえもんで母親との関係がある程度まともに成立しているのはジャイアン位である。
 即ち、サザエさんの世界では、いじめ問題は深刻化しないが、ドラえもんの世界ではいじめは陰湿な関係になっている。
 もし、ドラえもんの世界でドラえもんがいなければ、のび太の状態は現在のいじめ問題と基本的に変わらない。
 このサザエさんとドラえもんの時代は10年も隔たっていないにも関わらず、深刻な状態を作り出していると言える。
 ドラえもんののび太君は、ドラえもんがいなければ、彼に逃げ場は無いのである。家にも学校にも・・・・
 これが、時代がもう10年あとになりながら、けらえいこのあたしんちでは、両親が同郷の為か、みかんと柚彦には、学校に疎外感があっても、家庭に逃げ場が存在するが、ドラえもんの世界では、のび太君には逃げ場がない。
 現在の日本は総のび太君の家状態にある。
 のび太君は、父親がいるかいないか分からないため、父親という者を学べない。これはしずかちゃんやジャイアンも同様である。スネ夫に関しては、両親は愛情の変わりに、常に金銭で行うため、誤った親子関係を結んでいる。
 このドラえもんの世界がある意味現代社会である。
 子供は一人っ子で、父親は存在するのだが、存在感は存在せず、母親は学校の成績しか気にしない。
 困ったら常にドラえもんという物質で対処する。
 本来は、のび太君は、困った状況を人間関係の中から修正しなければならないのだが、常に困ったときは物質で対処するという事を学んでいっているのである。
 PTAは、ドラえもんを良質な番組と言っているが、本来は、非常に誤った価値観を与えている番組と言って良い。
 では、ドラえもんのいないのび太君は、学校にも家にも居場所がないので、疎外感から自殺するというのが、ドラえもんのいなくなったのび太君の将来だし、しずかちゃんは、家庭における、父親の喪失から年上の男性に父親を求めるため、高校生位から援助交際を始め、会社に入社後年上の上司と不倫関係から略奪婚というのが、正しいしずかちゃんの将来像だし、スネ夫は、ちょっとしたことから引きこもりになる可能性が高く。これはできすぎ君も引きこもり予備軍と言える。
 これは、彼らが最初の村落共同体から離れた、世代であり、それまで村落が教えてきた社会性を学ばない最初の世代となった。
 これは、地方から都会へ出てきた人だけではなく、元々都市部で生活していた人も、長屋の制度の崩壊により、長屋住民が分離した。
 長屋において、大家は親と一緒という思想は、下水設備の普及と肥料の変更により大家と住民の関係は大幅に変更された。
 化学肥料や金肥導入以前は、下肥(人糞)は肥料の主たるものであった。
 このため、江戸時代において、長屋から出す下肥を農家への販売価格と家賃とでは、下肥の価格の方が遙かに高い状態であったので、長屋とは現在の肥料工場と同様であった。
 東京から地方へ行く電車の大半は、東京から東京郊外へ下肥を運搬するために開発された路線であり、西武線は現在の主力は人員輸送であるが、現在の65歳以上の人にとって西武線はうんこ電車と別称で呼ばれるほど、下肥を輸送していた。
 この下肥のため、大家は住民の背中のかゆい所をかいて上げなければ収入の下落になったため、大家と言えば親と一緒という体制が作られた。
 しかし、下水設備と化学肥料の使用は、大家と住民との関係性を変え、都市の長屋文化を崩壊させた。
 都市における長屋文化の崩壊は、都市住民の孤立化を生み。同時に郊外の核家族が住む住宅街も全く無関係な住民同士が無関係に生活する状態になり、都市部は中心部と郊外は完全に孤立化した個個人が一つの家に居住する状態を作り出した。
 村落共同体の崩壊は、個人の孤立化を生み、この孤立化に耐えられない人々は、別の共同体を求めた。
 この別の共同体が新興宗教である。
 宗教の教義よりも、新たなる共同体としての宗教を人々は求めた。
 新興宗教に参加する個個人に取って、大切なのは宗教教義よりも、自己の参加可能な安住可能な共同体を求め、新興宗教に参加する。
 参加した個個人に取って社会的倫理感よりも、共同体の求める方向性が重要になってくるため、結果的にどのような悪辣な行為と化しても、共同体の求めに応じて行動することになる。
 この参加した共同体は、共同体そのものが全宇宙とも言える存在である。
 これは、日本型組織の抱える現在最大の問題点と言える。
 本来機能的組織が村落共同体と化すため、組織はその機能性よりもその内部構成員の人間関係が、組織利益よりも優先される。
 これは、文藝春秋の10月号で、日本海軍とアメリカ海軍の相違に関して論じているが、余りにも表層的内容であったが、この本質的な違いは、本来機能組織であるものが、機能組織を除いた共同体になるために発生する諸問題である。
 この点に関しては、社会学者である小室直樹氏の著作に論じられているので、参考にされると良い。
 

猟奇殺人

 07年11月2日号の週刊ポストに加古川小2女児刺殺事件の記事が出ていたが、この中で非常に気になる記事があった。
 記事参照P173
 別府町の町民のひとりが明かした。
 「約1年ほど前になりますが、柚希ちゃん宅からすぐ近くの空き地に毛をむしられ、首を切られた猫の死体が置かれれていたことがあったんです」

 これは、酒鬼薔薇聖斗事件以外にもある。快楽殺人のシグナルである。
 本来、人は人を簡単に殺す事は出来ない。
 最近団塊ジュニアを中心に起こっている安易な殺人行為は、例外的事例であるが、本来人は人を簡単に殺せない。
 このため、殺人者は殺人耐性を作り人を殺す。
 最初は虫を殺し、小鳥に移り、人が飼っている犬や猫などの小動物を殺し、最後に人を殺す。
 これは、日本だけではなく欧米における、ある種の快楽殺人の特徴である。
 例えば、同一条件が与えられても、人を殺す人と殺さない人がいるのは、私は個個人において、殺人耐性の違いが人を殺す行為を行う人と行わない人の違いが出てくると考えている。
 団塊ジュニアの殺人行為は、初期は親子関係の喪失により始まり、異常に希薄な人間関係が、殺人耐圧を大幅に引き下げる事により、殺人が行われる。
 これは、例えば団塊ジュニア女性が年上の男性に引かれる事は、団塊ジュニア女性の家庭の父親の喪失による、父親探しの行為である。
 故に、団塊ジュニア女性の年上の男性を求める行動と、希薄な人間関係による、安易な殺人行為は見え方が違うだけで同じ行為と考えている。
 団塊ジュニアの場合は生まれた時から親子関係の喪失が、対人喪失を生み、結果的に安易な殺人行為となるのだが、これを違う形でトレイスする行為が、小動物の殺人を繰り返す事で殺すという行為に罪悪感を喪失させ、最後人を殺す行為の実施を行う。これは殺人という人を殺すという行為と物を壊す行為の近似値化を行う。
 故に周辺地域で小動物の殺された死体を発見した場合は、警察は周辺住民に子供の一人での行動をさせるべきではない。子供を常に集団化させていれば、殺される危険性は少なくなる。
 今回の殺人事件は、警察の怠慢であると言える。
 なぜならば、猫の首なし死体は、殺人予告と同じである。今回の事件は、ある意味予告殺人が行われたと見るべきである。
 神戸の酒鬼薔薇事件や宮崎勤事件を一切教訓としなかった警察の怠慢事件というべき出来事である。

2007年10月23日 (火)

駅ウエ

 今駅ナカ・駅ソバ・駅ウエの商業テナントが増えているが、殆ど全てが商業と言うことでは、開発エリアが限られている。
 ここで、商業テナントの弱いエリアに関して、駅ウエのオフィス化がメリットが高いのではないのかと考えている。
 駅の上にオフィスビルである。
 通勤にしても駅の直ぐ上にオフィスであれば、通勤に便利である。
 駅からある程度歩く立地にあるビルより、駅の直ぐ上にあるビルの方が使い勝手はよい。
 駅ウエオフィスビルは少し検討して貰っても良いのではないかと考えている。

2007年10月22日 (月)

外務省キャリアシンドローム

 07年10月20日のウェイクアップで、アフガニスタンの活動において、元外務省キャリアの森本氏はとんでもない言動を言った、治安活動で殺害した数のテロリストはの全殺害者の7割近くを殺すという行為を正しいと言ったのである。これは無関係な一般市民を3割殺す事は正しいと同じ意味である。
 彼は、まず第1に日本の国際間系論系学者の例に漏れず、警察と軍隊の違いが良く理解できていない。
 軍事活動において、7割は戦闘員で、3割は非戦闘員ということは、現在まで行われた戦争ではよくある話である。戦闘行中の非戦闘員の犠牲は、ゼロにする事は出来ない。
 しかし、治安活動では、犯罪者以外を殺すことは、世界中で許される行為ではない。
 例えば、日本で警察が治安行為のため、銃器を使用した場合、犯人は7割近く射殺したが、3割を越えた犯罪と一切無関係な市民を射殺しましたと言った場合には、社会は警察の銃器の使用を絶対に禁止する。
 森本氏はこの行為を正しいと言うのである。
 これは、読売テレビのアナウンサーは、この発言時に森本氏の発言の行き過ぎを指摘すべきである。
 でなければ、読売新聞と日本テレビは、警察官が銃器の使用し誤射し、誤って一般市民を射殺した場合は、警察官を擁護し、殺された一般市民はしかたのない行為と言うべきである。
 そもそも、テロとの戦争などはあり得ない行為である。
 例えば、日本で暴力団がいるからと言って、政府が暴力団との戦争だといい、自衛隊を使用し、暴力団の組本部や組事務所に対して、ミサイルや航空機や戦車を使って攻撃すれば、一般市民は暴力団を恨むより、自衛隊を恨むようになるのは必然的行為である。
 このテーマは昔ガンダムの監督で有名な富野氏が”無敵超人ザンボットスリーで行ったテーマとかぶる課題である。
 新聞記者や国際間系論系学者・国会議員・外務省関係者は、富野氏のこの作品を見て、十二分に検討すべきである。
 話を元に戻して、森本元外務省キャリアに関して、彼は何故この様な思考を有するのか、しかし、この思考は彼だけではなく、佐藤優氏や鈴木宗男氏の著作にでてくる外務省キャリア官僚全員に言えることでもある。
 彼らは、自分の虫に刺された話を大げさに話すが、他者の痛みに関しては、常に平然としている。
 私は、この様な人たちを歴史上外務省のキャリア官僚以外では中世貴族しか知らない。
 外務省キャリア官僚は、中世貴族と同じ要素を二つ持っている。
 それは世襲と税金的特権である。
 世襲官僚が存在するのは、外務省しかない。財務省は世襲官僚を一切取らない。経済産業省も、ただ一人だけ世襲官僚を雇ったが、この世襲官僚は現在国会議員を務めているが、この世襲官僚は経済産業省を上へ下への大騒ぎを起こした。基本的に世襲官僚は益一切なく害しかないのは、全省庁の基本である。安部氏の問題も氏が世襲議員であるところが全てである。
 税金に関しては、佐藤優氏の著作にでているので参考にされると良い。
 このため、全外務省キャリアと外務省関係議員や外務省関係学者には、共通の他者感覚の無さがある。
 類は友を呼ぶの例え通りである。
 話題の舛添大臣も、彼は文科省ではなく、外務省の枠でフランスに留学へ行った事を雑誌で読んだことがある。
 舛添氏の週刊誌の女性関係は、舛添氏の他者感覚の無さが引き起こした問題と言って良い。
 これは、マリー・アントワネット風の”パンがなければ、ケーキを食べればいい”という感覚である。
 これは、皇室関係者になった父子ともに外務省キャリア官僚であった女性にも言えることである。
 この女性は、外務省という中世貴族社会に住んでいた所から、近代皇室にやってきた。
 近代皇室とは、昭和天皇陛下が作られた物である。
 昭和天皇は、東京オリンピックの頃まで、主たる生活のエリアを防空壕で過ごされた、臣下が普通の所へ住む様に、進言しても、一般市民がバラックのような所に住んでいるのに、自分が、率先して快適な生活を送るべきではないと考えられ、防空壕に住まわれた。
 この精神が現在の近代皇室を作った考え方である。
 これに対して、元外務省キャリアの女性は、中世貴族である。
 庶民が飢え死にする横で、晩餐会を開ける人たちである。
 この様な、異様な世界の住人であった、元外務省キャリア女性が、近代皇室に入り、適応障害になるのは別に不思議な話ではない。
 佐藤氏や鈴木氏が指摘している、ほとんどの問題は、外務省キャリア官僚特有の他者感覚の無さが引き起こした事件である。
 イスラエルやロシアの弔問外交の失敗も、外務省キャリアの他者感覚の無さが失敗の原因である。
 また、太平洋戦争の通告遅れも、外務省キャリア官僚の有する他者感覚の無さが引き起こした問題と言って良い。
 これは、当時の日本の置かれた状況を、彼らの他者感覚のなさが、日本国の置かれた状況を理解できないため、大事な電報をうつと連絡を受けながら、宴会を開き、大使館への出勤が遅れたのである。
 この通告遅れの感覚と似た事件をフランス革命のルイ16世はバスティーユ監獄で事件が起きたとき、日記に何もなかったと書いたとされるが、外務省キャリア官僚のもつ資質もルイ16世と同一の資質と言って良い。
 外務省キャリア官僚とは、現代社会に生きる中世貴族の集団である。彼らは彼らの世界だけで外交を行っているのである。外務省という小宇宙ないのみの外交を行う外交官である。
 外務省の外で起こるあらゆる出来事は、異星の出来事と同じである。
 日本国が他国と戦争しようと、他の国で日本人が被害に遭おうとそれは、異なる星の住民若しくは、良くて奴隷都市か見ず、通常は家畜扱いと同じである。
 拉致問題も外務省キャリア官僚に取って拉致された被害者は人ではなく、柵を越えて逃げた放牧中の家畜である。
 放牧中の家畜が数十頭逃げだそうと、現在放牧中の家畜は億近くいるので、数十頭連れ出されても、自分達にとって蚊に刺された痛み程に感じないから、彼ら外務省キャリア官僚は平然といられると考えられる。
 不倫と汚職も中世貴族と考えれば、中世貴族の生活の全ては恋愛と私的金銭と公的金銭の区別が付かないことである。

2007年10月20日 (土)

文明と文化

 文化とは、参加者を限るもの。
 文明とは、誰でも参加出来るもの。
 確か司馬遼太郎氏が、昔エッセイで書かれていたが、この定義に当てはめると、日本にとって野球は文明だが、サッカーは文化と言って良い。
 昔、ヤクルトにホーナーというメジャリーガーが来日し、”海の向こうにベースボールと違う野球という物があった”といい、玉木とかいう評論家は、これに正しいといい、日本の野球に屁理屈を付けていたが、イチローの活躍をどう言い繕うのだろうか?
 もし、野球が文化で、日本が行っているのがベースボールならば、ベースボールならば、腕が成人男子の太股くらいの太さの選手が活躍するのがベースボールならば、日本は常に疑似的なベースボールを行い、永遠にメジャーリーガーはでることはなかった。
 しかし、日本に取ってベースボールは、文明であり、日本人が参加出来る形に変化した、この頂点に立つ選手がイチローである。
 日本では、巨人を除き、打って・守れて・走れる選手が良い選手である。
 日本の場合、選手は巨人を除き、まず守れること(守れることが出来ればレギラーになれる)、走れること(走れれば、相手チームのミスを誘う事になる、なんと言っても守ることと走ることにはスランプがない)、そして最後に打てることである。
 イチローは、この巨人を除く他チーム(最近オリックスは巨人基準のようであるが)の基準の最も高い評価の選手である。
 逆に巨人基準とは疑似的ベースボールのため、どこまでいっても猿真似の域をでていない。
 この猿真似ベースボールプレイヤーが、現在オリックスの清原選手であり、ニューヨークヤンキースの松井選手である、清原選手は現在永遠に抜かれることのない三振王の記録更新に邁進中であり、松井選手は、日本ではホームランバッターであったが、メジャーでは走れないアベレージヒッターであり、守備も下手なのか良くけがをするようである。
 野球文明の中にいるイチローは、最高と言われるメジャーリーガーであるが、疑似的ベースボール文化にいる松井選手は、来年はまだヤンキースにいるのかな?という状態である。
 これは、野球では、巨人とオリックス以外は、猿真似をやめ、人として野球を行っているが、全てがお猿さんがやっているスポーツがある。
 それは、サッカーである。
 報道によると、猿真似ベースボールプレーヤーである清原氏の友人である、完璧猿プレーヤー三浦氏は、若い頃はブラジル人のゴールを決めたときだけ、猿踊りを披露していたが、これは三浦氏だけではなく、協会関係者・学校等の指導者・評論家・マスコミ・ファンの全てが、一人残らず大馬鹿者の集団である競技である。
 協会はドイツ風の猿真似とブラジル風猿真似を常に繰り返し行っているが、評論家・マスコミ・指導者・ファンの全てが、余りにもバカなため、プレーを行っているのが、日本人であるという視点に欠けている。
 サッカー界は釜本選手引退以来、敗戦理由を常に決定力不足といい続けている。
 Jリーグが開かれるまで、周りが関心を持たなかったのを一つの原因と言われていたが、Jリーグ開幕以来20年近い時間がたった。
 Jリーグ発足時に生まれた選手がいれば、その選手は、現在日本代表にセレクトされるべき選手であるが、現在も決定力不足と言っている。
 これは、サッカー界全体に欠けているのは、決定力ではなく、能力としか思われない。
 普通、企業で2期連続赤字を出した会社の経営者は企業から捨てられる。4期以上赤字を出したら、その会社は倒産している。もし、倒産もせず、存続し、経営幹部は一切責任をとらわれず、自分は優秀と考えていたとしたら、その経営幹部は、間違いなく精神が病んでいる。
 サッカー界は20期以上連続の赤字会社と同じ状態である。
 こういう状態で、毎度毎度同じ事を繰り返しているサッカー界は、その全てが精神が病んでいると言って良い。
 私がオシムの記事を読んで関心するのは、オシム氏が、先にあげた、文化と文明の違いを理解していると考えられる事にある。
 オシム氏は、今まで日本がやってきたサッカー文化からサッカー文明への転換を日本は行うべき事を言っている。
 特に走ることを言うのは、非常に正しい事である。
 サッカー選手がハーフの45分間走れないことは、野球で言えば、ヒットを打って1塁まで走れない事を意味する行為である。プロ野球選手でその様な選手はオリックスの清原氏とドラゴンズに移籍した元オリックスの中村氏の二人しかいない。
 もし、サッカー界が清原氏と中村氏のようなプレーヤーしかいないのならば、そもそもサッカーそのものが出来ないことと同じである。
 野球の清原氏と中村氏の様な選手しかいなければ、草野球にもならない。
 サッカー界はある意味、草サッカー以下である。
 草サッカー以下にプロなどは、そもそも存在しないので、日本サッカー協会は、下部の学生以下全ての団体は、出来るだけ早急に解散すべきである。
 現在の日本において、スーパーなバカしかいないサッカーに金をかける程に、暇な状況ではない。
 

2007年10月19日 (金)

日本の生産変遷(ラフ)

 ここでは、かなり大まかな日本社会のたどった、生産に関する変遷、特に重要な状況認識の変更に関して記す。

戦前
 規格という概念そのものが、存在しなかった。この為、現在では当たり前の思考が、戦前では当たり前ではなかった。現在3×3の丸ネジと言えば、日本全国目的とするネジを購入することは、可能であるが、戦前はその様な事はかなり厳しかった。この為、同じ三菱重工製でも工場が違うとネジ規格が違う。このため、かわぐちかいじ氏の”ジパング”において、平成に作られた艦艇の修理を行うシーンが描かれているが、現実には不可能である。同時代の違う所で作られた製品の修理が出来ないのに、未来の製品が修理することは不可能である。また、戦前工業規格を持っていたのは、ドイツのDINとアメリカのMILスペックのみであり、それも第1次世界大戦中に誕生した。
 かわぐちかいじ氏のどの作品も政治・経済・軍事・技術は常に荒唐無稽であり、この辺は荒巻氏と双璧をなす。
 規格の概念がないため、量産品でありながら、手作りの職人芸を要する設計を行う設計技術者がかなり多かった。

オキュパイド・ジャパン期
 アメリカの占領統治下、MILスペックをもとに、現在のJIS即ち日本工業規格が誕生した。当時の日本製品は、現在の様に高品質の代名詞ではなく、どちらかと言えば、現在の中国製品に近く、悪かろうやすかろうの代名詞である。
 この時代規格の洗礼を受けた企業や大学があり、それが、その後の規格無視主義と規格重視主義に分けた。
 規格無視主義者は、現在でも戦前と同様の製品設計を行い、特に機工設計者を分ける要因となる。
 現在でも、戦前と同じ設計思想能力しかない機工設計者は多数存在する。

オイルショック
 オイルショックは、日本企業にローディングコストの重要性を身につけさせた。
 これは、日本に生産性の考え方を植え付け、生産性重視主義と生産性無視主義を分ける働きをした。
 この生産性重視主義がトヨタのジャストインタイムと、流通向けジャストインタイムである7ー11のPOSである。

国際化時代以前(マーケティング不在期)
 70年代まで、日本製品はアメリカやドイツなどの欧州製品に遙かに及ばず、自動車産業においても、欧米の自動車メーカーの背中さえ見えないと自動車評論家は考えていたときに、ゴルフを研究し尽くし開発されたマツダの真っ赤なファミリアが誕生し、欧米の自動車メーカーの背中が見えたこの車を表彰するために生まれた省がカー・オブ・ザ・イヤーである。
 しかしながらこの当時は、あらゆる会社のあらゆる商品は、ある意味同業他社のコピー商品である、先ほどのファミリアのトヨタ版がカローラⅡで、日産版がマーチ、ホンダ版がシビック、三菱版がミラージュで格好からスペックに至るまで全てにおいて、オリジナルに似せて作られており、ある意味車だろうと、何であろうとJIS規格で定められた鉛筆を販売するように、あらゆる商品が販売された。同じ価格・同じ性能のモノを販売するためには、能力は出来る限りない方が正しく、体力のみが売り物であることが求められた。
この時代をある意味代表する商品が消しゴムのMONOである。この消しゴムは、そもそも鉛筆のおまけであった。鉛筆そのものに、差が付けられなかったため、消しゴムというおまけで差を付けたのである。
 この時代、何も思考しない、脳味噌筋肉が最も正しい時代であり、同時に1940ー1955年位に生まれた無思考世代に取って素晴らしい時代である。バカって素晴らしい、バカって最高!こそ、この時代のキーワードでもあるが、同時にまじめな時代であり、このまじめさの差が多くの企業を大企業と化す一方、ダメ会社の2種を誕生させた。
 例えば、オイルショックを人災と考えた会社はそれまでの初期コスト重視型からローディングコスト重視型に変更させ、ダメ会社は、天災と考え、それまで通りの初期コスト重視型に分けた。
 ここで人災と考えた会社は、次の時代の人材を養える体力を作り、天災と考えた会社は、次の時代を 担える人材の確保が出来なかった。
 このため、この時代以降、一流会社とダメ会社において、人材認識が変更された。
 佐藤優氏の著作に東郷元オランダ大使の科白として、有能な人材の序列がでていた。
 1、能力があり、やる気のある人
 2、能力があり、やる気のない人
 3、能力がなく、やる気のない人 
 4、能力がなく、やる気のある人
 この序列において、一流会社は1ー4の序列であるが、ダメ会社は4を最も評価する。1は自分の邪魔になるため、排除に働き、2は気に入らない。
 こうなると組織は3と4しか残らず、世代を繰り返していくと、下方限界がやってくることになる。
 佐藤氏のいた、外務省は当然ダメ組織なので、1、2の排除のため、彼は外務省に排除されたが、外務省そのものは、人材の下方限界をそろそろ迎えることになる。
 これは、戦前の日本海軍や陸軍に見られた傾向でもある。
 これは、太平洋戦争開戦は最悪の中の最良の選択であると言える。
 もう少し遅ければ服部卓四郎首相の辻政信参謀総長となり、日本人は全滅している。
 これが、もっと遅くなれば、辻政信総理と瀬島龍三参謀総長で、これは、一木一草残らず死滅を意味するため、東条であることは、最悪の中の最良の選択と言える。

80年代 自動化時代
 この自動化時代になると、外観だけではなく、取り付けやすい設計を考慮に入れるようになった。
 これは、機械に取って取り付けやすい設計技術を学んだため、その後のセル生産方式においても、自動化時代の取り付けやすい設計技術を機工設計は身につけることになった。
 
 それぞれの時代の影響を受け、生産技術は進歩した。そして、コスト競争力に最も差がでるのは機工設計の能力格差が最もでてくる。

1、セル生産若しくは混流生産に対応できる。
2、自動化ラインに対応できる。
3、規格の意味を知った設計が出来る。
4、開発品のまま製品にし、生産に職人芸を要する。

 この1ー4の序列は、現在の機工設計者の能力ランクだと考えられる。
 即ち
1、現在の機工設計者
2、80年代の機工設計者
3、60年前の機工設計者
4、生きた化石
 である。
 例えば4が当たり前の企業で高く評価されていても、社会全体としてみれば、その設計者は一切社会性を有していないことになり、その様な会社に入った設計者は常に社会不適応になるために努力を重ねることになり、努力を重ね20年位しても、社会的にはトレイスしかできない人という評価になり、彼の技術水準は社会的には入社2年程度と同様であり、専門職としては賃金の高い第2新卒と同様であるが、40過ぎた実質第2新卒を雇う会社は存在しない。
 これは、他の職責にも言える、現在自分の行っていることや先輩社員や課長を見て、この会社でいて、社会的専門的知識を身につけることは可能かどうかを判断すべきである。
 本来は、この判断基準は全ての40歳未満の人々が身につけるべき最低限能力である。
 何故なら、40歳未満の人々全ては、終身雇用は完全に崩壊した頃に入社しているのである。
 この状況下で大切なことは、自分の行っている仕事の社会性である。
 社会性の存在しない仕事(その会社独特)で、経理や人事以外は常に社会性が大切である。
 例えば営業職で、その会社は予算達成に重きを置き、シェアに重きを置かない会社であるのならば、その会社の営業職の人々は、その会社でしか通用しない営業職であり、その人の社会的定年は、大卒ならば21歳である。
 名刺交換も出来ない営業と言える。
 なぜならば、日本の全ての会社、いや世界中全ての会社の営業の使命はシェアの向上である。
 シェアの取れない営業職集団の言い訳が予算達成なのである。
 年率20%で成長している業界で、前年同期と同額若しくは気持ち上昇は、2ー3年後に、その会社の製品は、その市場から撤退する事になる。
 そのような会社に半年以上いることは、社会適応能力を削ることにより、生活していることを意味する。
 社会は常に変化する、特に資本主義の世界では、技術は社会を変える。
 日本には、江戸時代という、ある意味不幸な時代が250年間存在した。
 技術革新を完全に否定し、古い物を大切にする、”モッタイナイ”という考え方である。
 モッタイナイは現在では、環境に対して有効的な考え方と思われているが、その意味することは、停滞である。
 人々の欲望の否定である。
 人々の努力の否定である。
 モッタイナイとは怠惰を正しいとする考え方である。
 現在の様な大量消費大量生産の時代で、モッタイナイは、最後の最後まで地球環境を破壊する史上最大の兵器である。
 もし、モッタイナイを使うのならば、脱大量生産大量消費の次の時代にこそ、進める考え方である。
 それまでの道のりは遠く、厳しい。
 

2007年10月18日 (木)

日本は少子化社会ではない

 日本を少子化という人は、私が言うところの小学校未入学者である。
 何故ならば、現在日本の堕胎児数は交通事故者数より遙かに多く、堕胎児数と出産数を合計すれば、3をゆうに越える多産社会であると言える。そして同時に、現在日本は格差社会である。
 堕胎する人=格差社会の下層に位置する
 これまでは、堕胎費用を支払えた人が、払えなくなったため、乳児の置き去り事件が多発している。
 少子化とは、本来出産数の低下と堕胎数の両方の低下によって発生する。
 しかし、日本は出産数は低下しているが、堕胎数は増加傾向にある格差社会である。
 これは、徐々に堕胎数から出産数に移行する。
 では、何故、少子化というのかと言えば、少子化を言う人たちは、少子化しか見ていないし、堕胎は堕胎しか見えていないし、格差社会を言う人は格差社会しか言わない。
 例えば、少子化をいういのくち元上智大学教授は、少子化しか言わない。格差社会を論じる森永氏は格差社会しか言わない。
 彼らの知性に取って、これらの諸問題を統合して思考する能力にかけているため、全く別物として取り上げられる。
 彼らは、学者や研究者ではなく学校秀才の翻訳マシーンである。

 あらゆる物事は、常に相対的関係により発生する、ある物事が単独で発生することはない。
 しかし、人は物事を思考する場合、常に単独でしか考えない。
 この単独でしか考えれない知性を、相互依存関係を理解させるため、教育の意味がある。
 イノクチ元上智大学教授も森永氏も、少子化・堕胎・格差社会を、単独の文節で理解をしているが、その全体としての文脈としては、一切理解できていないし、森永氏に対して、”年収1千万以上貰っておいて”という言い方で、言説を封じ込めようとしている人たちも、その文節でしか、理解できない、小学校未入学者なのである。
 この、大量の小学校未入学な大学教授や研究者のおかげで、少子化・堕胎・格差社会は一切結び付くことなく、単独で語られている。
 この結果人々は、常にカレー風味のウンコを食べさせられている。
 小泉政権とはカレー風味ウンコであり、一般市民は耳を塞がれ、鼻は叩きつぶされ、舌を抜かれたため、郵政解散という名の選挙で、小泉チルドレンという名のウンコそのものを大量当選させた。この小泉政権への盛り上げ方とボクシングの亀田一家の盛り上げ方は同一である。

 これら少子化・堕胎・格差社会の3つを統合すると、日本は少子化社会ではなく、多産社会であると言える。
 通常多産社会は、貧富の差が広い社会でもあるし、犯罪発生件数も高い社会でもある。
 そして、子殺しと親殺しの多い社会でもある。
 例えば江戸時代は、間引きという名の子殺しが横行していたし、姥捨てという親殺しが年中行われており、餓死も結構多い社会でもある。
 そして、格差社会でもある。
 そもそも格差社会を問わず、富裕層と知識労働者の子供の数は少ない社会である。
 現在の少子化といわれる状態は、本来非富裕層であり、非知識労働者でない人々の子供の数が少なくなったため、発生した。
 何故ならば、日本は先進国である。
 先進国とは、その国に住むだけで、世界的に見れば富裕層であり、知識労働者の所得を得られる状態にある。
 本来、中・下流層に位置する人々が、先進国に居住したため、疑似的富裕層や疑似的知識労働者になったため、富裕層や知識労働者と同様の生活スタイルになったにすぎない。
 この疑似的富裕層並びに疑似的知識労働者は、現在のグローバル化、即ち国際化の結果、世界のパイ全体の取り分は変化せず、それまで、発展途上国という国々に居住していた優秀な人々が、先進国の生活を行えば、それまで先進国に住んでいた非優秀な人々はその能力に応じた国力を有する国に住むことになる。
 住むといっても、日本以外に住むのではなく、日本で発展途上国の生活を行うという事である。
 現在まで疑似的富裕層や疑似的知識労働者としていた人が、本来的立場である中下流層になる。
 人種や優性的思考を無視すれば、多くの国々の優秀な人々の一定数に変化はないと考えられる。
 グローバル化とは、それまで国々によって分けられていた南北問題が、一国内において南北問題を発生させる状況にすぎない。
 例えばアフリカの諸国は先進国から借金をし、現在は多額の金利の支払いのため、先進国から借金をする多重債務者の様な状態にあるが、この状態が、先進国内の人々の状況に変化する。
 アフリカは多くの希少金属の算出が行われている、もし、これらの国々の政情が安定していれば、これらの国々は資源の管理を行い、石油でOPECが行ったような生産調整を実施すれば、中下流層が特に頻繁に変える携帯電話は、中下流層の一生の夢は携帯電話を持ち任天堂のWiiで遊ぶ事がでるほどに価格が上昇することになる。
 希少金属の価格を安くするためには、算出国の政情は常に、内戦状態にあり、周辺諸国はその国に潜り込んで少しづつその国の資源をかすめ取り、国際市場で流すと、希少金属等が安価に手に入れることができる。
 先進国の中下流層の生活は、アフリカや東南アジアを貧しくさせる事により成立している。
 昔はカップ麺、現在は猫缶は、東南アジア特にフィリッピンの出稼女性労働者の理由である。
 猫缶を作るため、東南アジアの島々へ巨大船団を用意し、根こそぎ海老や小魚を捕ってくる。
 その根こそぎ取られる海老や小魚は、小さな島々の漁民の主食である。根こそぎ取られるため、生活出来なくなった人々は主要都市へ行くが、普通のアパートには住めないため、でてくる前は狩猟採集生活である、現金など持っていないし、さほどの教育も受けていない。
 多くの人々がスモーキーマウンテンの様な劣悪な環境で生活している、例えば現在は移植医療は中国が有名だが(囚人を生体移植に使用するため)、中国の前はフィリッピンが有名な移植医療が行われていた(囚人はいないが、ストリートチルドレンは山ほど行る)。
 その中の一部が日本にやってきて外国人パブへ行き、妻では得られない安らぎを求めて亭主は外個人パブへ通うと、妻は大きくなって手がかからなくなった子供の変わりに猫を飼い、猫缶を購入し、より多くの亭主を外国人パブへ通わせるため、努力をするようになる。
 日本国内に南北問題が発生すると、南に住む人々(足立・多摩・相模・湘南・八王子並びに類似地区)の産婦人科は、住民の支払い拒否の結果、成り立たなくなるが、この地域の出生比率は非常に高くなるため、公共投資(道路や建物)は行われず、産婦人科の踏み倒しの立て替えや、給食費の肩代わりといっても、この地域の次の問題はストリートチルドレンと団塊孫による小学校・中学校の売春窟と麻薬窟化でほぼ手一杯になる。
 また、これらの地域では注射の回し打ちによるエイズ患者の増加から、小学校・中学校が注射器を配ることになる可能性が非常に高い。
 しかし、問題点も多いが、この地域の初産の年齢は大幅に低下する事は間違いなく、中学校の卒業時には女性の卒業生内半数以上は父親の分からない子供を一人以上持ち、残り半数は父親の分かる子供を一人以上持ち、現在お腹の中には父親の分からない子供がいるというのが、普通の卒業式になる可能性の非常に高いエリアになるため、このエリアの出生比率が3以上になり、港区等の高級住宅エリア、居住域の周りを銃器を有した民間警備会社が警備し、このエリアの出生率は0.幾つということになり、日本国全体としては、先ほど上げた貧困エリア(前に書いた団塊居住エリア、即ちバカエリア)と富裕層エリアの合算値は3を越える数字になる。
 日本はグローバル化による格差社会に入った、このため、疑似的富裕層や疑似的知識労働者が、中下層化するため、南の国々が抱えていた問題を北の国々が抱える事になり、結果として少子化問題は解決する、しかし、これは政府・財界の望むある一定以上の質を有した労働者としての少子化解決ではなく、犯罪発生件数の上昇という負の側面を有した意味での少子化解決となる。
 政界・財界の考え方は、団塊ジュニアを中心とした世代を貧困層と位置づけているようである。
 何故ならば、団塊ジュニアの就職時期を就職氷河期化し、団塊ジュニアを完全排除できた頃から、就職率を上昇化させ、現在では人が足らないと言っているが、日本企業は新卒で人を雇うため、25歳以上であれば、新卒で雇用する意志は存在せず、だからといって、中途採用の場合、即戦力のため、40歳以上でなければ雇用されないので、人が足らないと新聞で書かれながら、実際の所、25歳以上40歳未満では、今でも就職氷河期の状態に維持されることになり、これは団塊ジュニアを中心とした世代を貧困層化させるという、政府財界の意志といって良い。
 しかし、この団塊ジュニアの貧困層化の最大の原因は団塊の世代そのものでもある。
 彼ら団塊ジュニアは両親によって、貧困層化するといっても良い。
 団塊の世代が引いてしまったゆとり教育によって基礎学力の低下が行われ、結果分数の出来ない大学生を生み、その対策を各大学は打ったが、やはりかなりのロスが生じる。
 このため、ゆとり教育世代が就職氷河期化した。
 政府はあわてて、対策として再度元の状態に戻したが、ここでギャップが生まれる。
 大学の基礎学力対策が行われた以降から企業は、採用抑制を解いたが、その採用抑制の影響は団塊ジュニアを中心とした就職氷河期世代に無関係な話である。
 このため、就職氷河期世代は基礎学力対策がとられていないため、下からやってくる対策世代に給与面で追いつかれ抜かれることとなる。
 就職氷河期世代が結婚し、子供が産まれ、小学校に上がる頃には、小学校や中学校は元の詰め込み教育に戻っているため、普通の生徒は学校の授業に遅れないため、補修塾に通うようになるが、親の所得は上がらないし、同時に正社員の雇用環境の悪化は諸に就職氷河期世代に重石になる。
 前にホワイトカラーエグゼプション制度は、ある意味就職氷河期世代の子育てに影響を与える。
 基礎学力の無さは、資料読みや思考力の悪化を生むため、労働時間の長時間化を生む。この労働時間の上昇分をカットするため、就職氷河期世代は、今までのような子育てする時期の給与の上昇が行われないため、子供の補修塾の費用の面倒を見ることが、かなり難しくなる。
 上の世代の様に、両親の列島改造論による資産上昇の結果、両親は子供に援助することは可能であったが、団塊の世代は、逆の資産下落になり、自己の生存の為の行為以上のことはかなり難しくなる。
 このため、団塊ジュニアは、給与の上昇は行われず、両親からの援助も期待できないため、子供の教育に費用をかけることが難しくなり、結果的にグローバル化した社会にとって他国の同世代に対して、劣位になるため、給与と権限が外資系だけでなく、国内企業からも、他国の人々に奪われることになる。
 結果団塊ジュニアを中心とした世代は、日本国内の発展停止国状態に置かれるが、数が多いため、政府の対策は十二分に及ばず、ある意味両親とと共に限られたパイを取り合う状態になり、親子間の断絶は他の世代よりも遙かに巨大なものとなる。
 しかしながら、グローバル化は負の側面ではなく、正の面で見るべき事も多い。
 グローバル化は特に、憲法9条擁護者にとっては、福音である。
 そもそも戦争とは、全て経済問題である。但し日中戦争及び太平洋戦争を除いて。
 これを他の人は宗教や他の問題に置き換えて、庶民を戦場に駆り立てたが、全ての戦争の原因は、経済にある。
 例えば、中世の十字軍遠征も、宗教に関する問題ではなく、経済問題であった。
 これは、インドからの胡椒輸送ルートの問題である。
 陸路であれば、中東を経由する必要があった、この陸路確保の目的で行われたが、失敗した欧州は、陸路を諦め海路の開発に乗り出し、大航海時代を欧州は迎えることになる。
 第2次大戦及び太平洋戦争集結までの間、スチムソン米国務長官のいう通り、「GMにとって、よいことはアメリカにとってよいことだ」という状態が、プラザ合意やBIS合意まで続いた。
 日本にとっても、”三菱・トヨタにとってよいことは、日本にとってよいことである”は、プラザ合意まで、完璧に正しい課題であった。
 しかし、プラザ合意以降、多くの輸出競争能力のある企業は海外で生産を行った、この結果、プラザ合意以前それぞれの企業の忠誠心は、本社所在地国家に向かっていたが、プラザ合意以降、企業の忠誠心は、本社所在地国家だけではなく、大株主、主要販売先国家並びに製造拠点国家に、それぞれ均等に向かうようになり、あたかも中世欧州の円卓の騎士との関係になった。これは、日本国政府の様々な委員会に日本に本社のある多国籍企業の経営幹部が座るようになったのは、この好例である。
 それまでは、その様な委員会は、各省庁の意を受けた学識経験者等が省庁の考えにお墨付きを得るのに使用された事とかなり様相が違ってきている。
 この多国籍企業の誕生は特に経済産業省の地位の低下を生み、同時に経済産業省の人員の能力の外務省化が行われることは、国家にとって百害あって一利ないことになる。
 このためにも、政府は経済系官僚を中心としたリストラ策を大いに進める必要がある。
 経済産業省と国土交通省と農林水産省の3省は、1つの省若しくは、総理府の一部局化するべきである。
 大幅なリストラや給与の低下という負の側面はあるが、これまでの様な、先進国間における経済問題は企業の多国籍化のため、重大な問題になりづらい。
 例えば現在言われている、中国驚異論も、よくよく考えてみれば嘘である。
 なぜならば、現在中国は欧州・日本・米国から先端技術を導入して輸出を行っている。これは90年代の韓国と基本的には同じである。
 例えばサムスンは、半導体ICの世界的トップメーカーであるが、基幹技術や製造装置は日本からの輸出で行われている、消費財生産国である。これは、中国も同様である。これは、第2次世界大戦や太平洋戦争以前の日本を除く欧米基準の考え方で言うならば、資本財を輸出するのは宗主国であり、資本財を輸入し消費財を生産する国は、資本財輸入国の植民地といって良いからいうと、現在の韓国の宗主国は日本であり、韓国は自治を行っているので、韓国は日本の信託統治国といって良く、中国は日欧米の信託統治国といって良く、この様な国家は驚異にならない。
 この理由は戦前の日本を考えれば明らかである。
 戦前の日本は、ドイツやアメリカから資本財を輸入し、消費財を主にアメリカに販売する国家であるので、実際問題戦前の日本はアメリカの信託統治状態にあると言って良く、戦前の日本は資本財も作れないのに、宗主国であるアメリカへある意味独立戦争を仕掛けたと言って良い状態にあった。
 しかし、信託統治国家が宗主国に勝つことは、ほとんどあり得ないため、日本はアメリカに対してボロ負けした。
 同様に中国が驚異と言われているが、中国は表面上はともかく現実的には、日欧米の信託統治国家といって良いため、実質的な驚異とならない。
 また、先進国である、日本・アメリカ・ドイツ・フランス・イギリスはそれぞれが宗主国であり、それぞれが信託統治国家であるため、戦争の可能性はほとんどない。
 先進国間で戦争の起きる可能性は、戦前の日本のように、軍人一人一人が、自己の階級を上げるために勝手に戦闘行為を実施する場合、政治・経済に一切無関係な行動のため、戦争目的そのものがなく、戦争そのものが目的と化す場合のみである。
 その様な行為は、中央の政治体制が崩壊しているケースのみである。
 そのため、日本をふくめてその可能性は低い。
 中国が驚異となる場合は、あくまでも外的なものではなく、内的なもので、中国国内で内戦状態になる場合のみである。
 

2007年10月17日 (水)

スーツのポケット

 スーツのポケットに物を入れるか入れないかであるが、私は入れる派である。
 歴史的に見ても男性用の洋服に付いている物に飾りで付いている物はない。
 例えば冬の定番トレンチコートも、そもそも第1次世界大戦の頃の塹壕(トレンチ)戦向けに開発された。
 スーツの後ろにあるベンツ(ベントと書いている本もある)もイギリス式はサイドにあり、フランス式はセンターにあり、イタリア式はない。
 このベンツも、そもそもサーベルを吊り、馬に乗るために開いた物の名残である。
 戦争を結構やっていた、イギリスやフランスはサーベルを吊るためにベンツが開いたが、長い間フランス等外国の植民地になったイタリアでは、サーベルを吊る必要がないため、ベンツが開いていない。
 男性用の洋服は実用のために作られたため、色々ポケットが付いている。
 女性用は長い間ポケットは全て飾りであった。
 財布の紐は男性が握っているため、女性は財布を持つ必要がなく、又を開くのみが女性の役割であったため、実用性より、装飾性に重きが置かれた。
 しかし、現在は、女性も実用性が求められるのでポケットに物を入れるのはある意味当然の形態である。
 逆にスーツのポケットに物を入れない派は、男性の形態の変化から、又を開くのが役割の男性がポケットに物を入れず、女性若しくは他の男性が財布を常に開く男娼さんかもしれない。
 若しくは、昔は貴族は召使いが何でもしてくれたが、現在は母親が何でもしてくれるひとかもしれない。

どうにも素敵な文具術・中島孝志著

 中途半端な内容の本で、著者は多くの点で勘違いをしているように見受けられる。
 ツコミ所満載、論理矛盾、自画自賛本でもあり、電子機器は山根風しかし、山根氏と違い、紹介の仕方が甘い。
 山根氏の席を奪う能力は欠片もない。
 だからといって、ブランド品に強いわけでもない。

 P23のシャープペンシルの項に使わなくなったモンブランのマイスターを言うのに清原を上げるのは、元東洋経済の記者としては、能力に疑問がある。桑田までであれば、論旨に問題はないが、清原を上げるとアマチア時代は素晴らしかったが、プロになってさほどの成績を残せない学校秀才のイメージが付く。
 パイロットのドクターグリップに関しては、私も使用したが、このシャープペンシルの最大の欠点は0.5mmの芯を使用している点にある。
 そもそも、シャープペンシルは、鉛筆の進化系文具である。この鉛筆の書き味は0.5mmでは実現しない。鉛筆の機能を求めるには、芯は太いことである。
 この芯の太さと、ホールド力からいって、シャープペンシルのベストアイテムは、プレスマンである。0.9mmの太さは、鉛筆の書き味をもち、ホールド力も強く、私も筆圧は高いが、さほどおれることなく使用できる。
 モンブランのシャープペンシルといっても、所詮早川式の、コピー商品である。
 もし、もってこだわりをだすのならば、カランダッシュ当たりの方が知る人ぞしるというこだわりが見えてくる。
 それも貰ったものを、ここまで評価するのは、この著者特有の勘違いがでている。
 
 はがきの使い方はおもしろいが、著名人を使い、自分を出来るだけ大物に見せようとする悪癖がかなり見受けられる。
 よほどのバカでない限り、あいたいと思わせない悪癖であり、厚顔無恥という学と教養のない成金タイプの様である。

 製造中止品のキングジム製スキットメモに関しては、”お前は山根一真か!”とツコミを入れたくなる。
 山根さんが、これが良いと紹介すれば、製造中止品が再販売されたりするが、著名人を使用し、自分は優秀だという書き方をする著者は、自己の影響力を著名人と同一視していると考えるので、自分が本に書けば再発売されると思い書いたのだろうが、この著者には山根氏のような影響力は存在しないため、製造中止品が再発売される可能性はほとんどゼロのため、このような在庫限りの商品を、書籍に書く行為は止めた方がよい。

 P19には、”ポケットにハンカチ以外入れない”と書いてあるのに、P84には、”いつもシャツのポケットにメモ帳とミニシャーボを挟み込んでいた”という下りがある。
 編集者は著者のこういう論理構成能力の完璧なる欠如を補うためにいるのに、この著者と言い小林よしのりといい、編集者の能力不足と著者の能力不足の著しい書籍はかなり発行されている。
 ポストイットの項にもポケットにポストイットを入れていると書いているので、この著者は典型的な鳥頭な人で3歩歩いたら全ての事を忘れるみたいである。

 P120にファイルサイズを統一しろといいながら、紹介するものは、種々のサイズが登場する。
 こう言うのを竜頭蛇尾ファイリングというのだろう。

 P150のペンスタンドは正しい使用法である。
 これは、昔試験で机の上に鉛筆の芯先を前方に並べると時間の節約になるという話が出ていたが、それは試験での話で、普段実行するには、ペンスタンドに一本づつ使用する道具を立てて置く方式の方が取り出しやすいので、説明にある写真の方式は、少し探す手間がかかるやり方である。

 色々記載したが、新たに使用してみたいと思わせたものは、一つも存在しない。
 有り体に言えば、今まで各種雑誌や本に書かれた事と何が違うのかという気にさせた。
 この様な文章の書き方ならば150冊はかなり少ない部類に位置するだろう。
 売文業としては、日垣氏にかなり及ばず。
 電子機器推薦人としては、山根氏にかなり及ばず。

 暇で暇でしょうがない人は読んでも良いが、出版社は、この様なレベルの著者の書籍を出さない事が、地球に優しい出版社と言えるであろう。
 この書籍を出した、アーク出版社はかなり地球に厳しい出版社なのであろう。

2007年10月11日 (木)

権威主義者小林よりのり

 ゴー宣・暫(2)で、またまた、論理矛盾の巨魁で権威主義者の小林氏の本領発揮である。
 ここのP150に”大学教授でもないのに「哲学者」という名刺を見たことがある”という言葉が出ている。
 そもそも肩書きとは、自分が名乗り、相手が認識したときに、その肩書きが成立する。
 即ち、小林氏のいう、漫画家という肩書きも、小林氏が名乗り、相手が認識するから肩書きとして成立する。
 これは、20歳過ぎて、無職で、自宅に引きこもり、たまに自作のマンガを書き、コミケに出典する人も、本人が自分は漫画家であると、名乗れば漫画家であるが、社会的には、一般流通の書店に単行本が置かれたり、週刊誌に連載されたりしていれば、漫画家であると、社会認知が発生する。
 この文章は、小林氏自身が、不動産屋の親父と同一の精神性を有する事を、自身で無意識な発露と言わざるおえない。
 小林氏の中で、哲学者とは、大学教授であるという図式を思考しているため、出てきた科白である。
 大学教授であっても、哲学の出来ない文学部教授はゴミの様に存在する。
 本人は小説家や物理学者と言っているが、社会は哲学者と認識している人は存在する。司馬遼太郎氏や湯川秀樹氏やアインシュタインなどは、この好例である。
 例えば、ヘンリー・キッシンジャーは、自身は歴史家と言う風に言っているが、社会はキッシンジャーを歴史家とは見ていない。
 これは、例えば政治家とは衆議院や参議院などの選挙で通った人は、政治家であるが、落選した人は政治家出はないと言っていることと同じ事である。
 即ち、小林氏の中では、完璧な政治業者であっても、選挙で受かれば政治家で、高邁な政治思想を持った人でも、選挙で落選していれば、この人は政治家ではないと言うことになる。
 例えば、ミャンマー(ビルマという言い方は好きではない、私は、ミャンマー(地域名)の民主運動家と言う人が、ビルマという民族名を名乗っている限り、この民主運動家は、ビルマ人地位向上を行い、ミャンマーにいる少数民族の虐殺運動家としか考えられない)のスー・チー氏は、小林氏風思考であるならば、軟禁ではなく、単なる高齢者の引きこもりになる。
 しかし、小林氏風の権威主義者は、小林氏の周りの学者や代議士に多くいるので、こういう過ちを行ってしまうのであろう。
 編集者も、この様な内容の趣旨に、完全に誤った表現や論理の大幅な飛躍は、慎むべきである。
 彼の前のページでコーナーを持っている佐藤氏に失礼な行為である。
 07年10月24日号で、佐藤氏は、”一流雑誌に持ち込まれたらば、論旨不明瞭を理由に編集部から書き直しを求められるであろう。仮にこのまま掲載させるならば、読者は「日本人は論理連関を無視した規格外の文章を書く。まさに東洋の神秘だ」と受け止めるであろう”と書いている同じ雑誌で、この様な論旨の飛躍や自分は権威に屈しないなどと言いながら、実はかなりの権威主義を示している。これは、小林氏の問題と言うより、担当編集者の能力の問題である。

相撲からSUMOUへ

 相撲は、北の海の全盛期は相撲という漢字で書かれる競技であったが、北の海の引退ころから、相撲はデブダンスの時代になった。
 このデブダンサーの頂点が若貴兄弟である。
 しかし、このデブダンサーの時代は報道等によると八百長全盛期でもあり、それまでの相撲道という無理片に拳骨と書いた思想はそのままだが、金の誘惑が強い時代でもあった。
 現在は外国人力士が出てくるSUMOUの時代になっている。
 この違いに協会関係者や報道機関の理解力不足が多くの問題を作っている。
 このSUMOUの時代には、SUMOUにあった仕組みが必要である。
 だからといって若貴時代のぶよぶよの脂肪の塊のデブダンサーでは、どうしようもない。
 あくまでも、SUMOUという事を考え体制を見直すべきである。
 これは相撲だけではなく、柔道も現在はJUDOであり、銀行も、例えば三菱銀行は、大蔵省銀行局三菱グループ出張所であったものが、現在は金融庁MUFG出張所でこれから単なるMUFGとなり、新聞社とテレビ局だけが、総理府広報局鸚鵡返し課のそれぞれの出先機関となっている。
しかし、時代はそれを許さないため、変化しなければならない。
 これは、今回相撲ででただけの話である。

アタリーNECの法則の罠にはまったSON#Y

 ソニーは完全にアタリーNECの法則の罠にはまったようである。
 アタリとはビデオゲームを最初に出した会社であるが、大ブームを巻き起こしたが、本体を売ることを主力に考え、ゲームそのものは、ゲーム開発会社に丸投げし、余りにも多くのカスゲーを出したため、一気に売れ残り倒産した会社である。
 このため、これ以降アタリの失敗を行わないため、ゲーム機器製作会社は、ゲームの品質こそゲーム機販売の鍵になると言うことで、ゲームの管理に乗り出した。
 NECの失敗とは、今から20年程前にゲーム機メーカーは三つ巴の争いを行っていた。
 任天堂・セガ・NECホームエレクトロニクスの3者である。
 この時、一般ユーザーにさほど相手にされなかった、NECは、パソコンとのリンクが可能なゲーム機を出し、ゲームオタク向けに特価したが、しかし、ゲームオタクは購入してくれるが、ゲームオタクの要求する水準を満足させるには、性能を上げなければならない、しかし、ゲームオタクは、ゲーム市場の主流ではない。このため、開発費がかかる割に販売実績が上がらないため、ゲーム市場から撤退した。
 即ち、ゲームは一定以上の品質がなければ、一般ユーザーにも、ゲームオタクにも見捨てられるが、しかし、一定以上の品質があると、一般ユーザーに見捨てられた。ゲームオタクの好むゲームは、ビジネス的にはカスゲーである。
 これが、アタリーNECの法則である。
 NECが撤退した後、セガもNECと同じ過ちを犯し、現在ソニーも同じ過ちを犯している。
 ゲームとは一般ユーザーの好むゲームを提供することが、ビジネスとして正しいゲームである。
 PSの画像の良さは、当初それまでの汚い画面になれたユーザーを引きつけたが、PS2で、より高い容量を持つ製品を出し、またゲーム製作会社は、元々オタクがより多く従業員として従事しているため、よりオタク指向のゲームが製作され、ゲーム市場の死滅へ邁進していた。そのゲーム市場死滅の決定策となるゲーム機として、SONYはPS3を登場させたが、ゲーム機市場の死滅を見た任天堂は、SONYが重視した、ゲームオタクではなく、一般ユーザー向けに方針を変更した。
 この一般向けゲームとは、1ゲーム当たりの使用時間は1分30秒から2分程度(これは実測値ではなく経験値)で繰り返し行え、やっていると30分は直ぐにたち、尚且つ繰り返す度に向上するゲーム。
 PS3が、求めたゲームオタク向けゲームの成功はドラゴンクエストとファイナルファンタジーの2作のみ、開発費がかかるため、製作会社が限られる。
 しかし、この1回の使用時間は短いが繰り返し行え、やる度に向上するゲームはメガヒットのインベーダーゲーム・テトリス・ぷよぷよ等ヒット作は、めじろうしであり、開発費よりもアイデア勝負のため、知られていない才能の発掘にもなり、尚且つこの一般向けゲーム法則は数独やクロスワード・トランプゲームの各種はこのビジネスとしてのゲームに乗るが、ドラゴンクエストの様なゲームは、どちらかと言えば、麻雀のようなゲームであるが、麻雀はメンバーがかわるが、ソフトとハードは一度買えば何度でも繰り返し行えるが、元々オタク向けゲームであり、このゲームの特徴は常に掛け金がやりとりされることが、もう一つの特徴であるが、PS3には、掛け金のやりとりさえもないとなると、ゲームの面白さだけに、重要視されるため、常に開発費の回収が射幸性が高いものになる。
 また、今回のSONYは、ゲームオタク向けという誤りだけではなく、セルという半導体の販売を中心とした、ホームサーバー市場の奪取という目的も加味されているため、あえて安い価格で提供した事も問題を大きくしている。
 SONYのPS3対策は、あくまでも単純なゲームで繰り返し行え、PS3の画像処理能力を一切必要としないゲームをどれだけ多数ラインナップに乗せるか、それともPS3そのものを売却するかの選択しか残っていない。

2007年10月10日 (水)

三越伊勢丹合併に関して

 古い話になるが、伊勢丹と三越の合併は二つのデパートの強みを生かし、より高いサービスを行うべきである。
 それは三越の外商と伊勢丹新宿店の融合である。
 この目的のため、三越銀座店の改装を行う。
 会員制の高級コンシェルジェデパートがコンセプトである。
 入店は三越の外商の顧客と伊勢丹新宿店の厳選顧客のみ入店を可能とする。追加会員は、既存会員の推薦状と既存会員10名程度の承認により行われる。
 三越の銀座店の外観はそのまま使用し、1階は、ロビーにする。1階で会員の確認を行い入店する。2階以上が、販売フロアーになり、販売を行い、売り物は全て限定品とする。
 銀座三越は、外観と1階は、富裕層向けには良いが、他のフロアーは、話にならない。
 むき出しの配管設備、各階の間の余りにも低いフロアー余りにも圧迫感に閉所恐怖症になりそうである。
 外観と1階の吹き抜けのフロアーは良いのだが、他のフロアーは、良く言えば場末の倉庫である。
 外観と1階以外は全面改装を行う。
 内部には、限定品ショップと会員向けフィトネスジムと簡単な検診フロアーを付ける。最上階は食堂を付けておく。完全オーダーメイド料理フロアーである。
 オテル・ド・三国から一品、高級中華料理から一品、世田谷の流行のスイーツをデザートにするといった料理を提供するレストランなど、顧客のあらゆるわがままに対応するデパート、会員証がステータスになるようなデパートである。
 極端な目標は会員の師弟は慶応の幼稚舎や早稲田の初頭部に無試験で合格するという伝説を持つデパートである。
 
 電話による、コンシェルジェ業務も行う。
 旅行から、パーティー、子供のお受験、冠婚葬祭などの全ての会員のわがままに対処し、あらゆるブランドのオーダーメイドに対応し、会員証は、VERTU(ノキアの高級電話)、このため、このVERTUとの提携を行う。
 特に三越の外商と伊勢丹新宿店は新旧の富裕層を顧客としているため、この二つのセレクトメンバー向けデパートにする。
 これは、伊勢丹新宿店と三越外商の融合によるWinーWin関係の構築である。
 この融合は、唯一日本の百貨店が、現在の無貨店から脱却し、百貨店化する唯一の方策である。
 しかし、これは正しくは、百貨店の祖先還りでしかない。
 これは、近代資本主義が生んだ一般消費者に対して、それまで貴族が行っていた消費生活を一般大衆に提供することを目的とした百貨店が、貧困層向けのメガストアーの誕生により、一般大衆向け消費地が変わったため、社員教育に資金をかける百貨店に人がこなくなったため、再度貴族向け消費地として、再構築することを目的に、業態の変更を行うことが、百貨店の唯一の生き残りの方策である、そういう意味で今回の伊勢丹新宿店と三越外商の融合は、手の打ちようによっては、大変おもしろいものになる可能性を秘めていると言える。

2007年10月 8日 (月)

バカエリア

 関東大震災以降日本には、バカエリアと呼ぶ地域が作られた。
 日本最初のバカエリアは足立である。
 それは、関東大震災以前においては、東京へ来た多くの人々は足立エリアに居住した。
 関東大震災以降、この足立エリアから知的労働者・富裕層が、新たに開発された西部地域(品川や港)に住むようになった、この為、大正から昭和初期に活躍した岩崎家の三菱閣や三井倶楽部が西部地域に存在する。
 現在の高級住宅街や銀座の発展は、関東大震災以降に発達した。
 江戸文化の振りをする落語も隆盛は明治から大正期である。
 歌舞伎等の浮世絵はあるが、落語家の浮世絵がないのが、江戸時代にそれほど落語に人気が無かった証拠でもある。
 落語の名作”藪入り”も明治の奉公に関する題材である。
 このため、落語家の多くは足立エリアに居住している。
 また、大震災で崩壊した浅草十三階やこの時期の流行作家江戸川乱歩の舞台も浅草界隈になっている。
 関東大震災が発生し、知的労働者や富裕層が足立エリアから逃げ出しため、現在に至るまで、この地域がバカエリアとなっている。
 戦前までの多くの都会に出てくる労働者の目的は”故郷に錦を飾る”ことである。このため、三菱本社や三井本社の重役といえども借家住まいがかなりいたし、当時は、同じ出身在所同士が結婚を行い、現在のように、同じ会社の同僚同士の婚姻は、戦前においては勘当ものの、親の死に目に会えない婚姻関係であるが、現在では、普通に行われこの婚姻が親の死に目に会えないという事はない。
 戦前までの村落共同体が崩壊と共に、それまでの日本社会の完全否定が行われると共に、飾る錦の場所を喪失した人々が、移転した土地土地で生活する根無し草が戦後始まった。
 この根無し草第1期がサザエさんの波平氏である。戦後福岡から東京に出てきて品川・港・杉並・世田谷等の田園地帯に農地転用で住宅をたてた。舞台設定は1950年中程から1960年頭になる。
 このため、サザエさんの中では、一家団らんの中にテレビが重要な役割を果たさず、御用聞きがでて、それぞれの家が、ほぼ地元の大工が建てたため、それぞれ色々な木造家屋が存在し、その中で流行作家だけが、所得が高いため、コンクリート作りの大工ではなく、建設会社が建てた家となっている。このため、波平氏の住宅は、現在の高級住宅街に60坪から70坪前後の家を有する、金融資産2億から3億の富裕層に当たる。
 このサザエさんのタラちゃんとほぼ同年齢と考えられるのがドラえもんのび太君である。居住エリアは中野区・練馬区当たりに住み、やはりテレビが重要な位置を締めておらず、50坪未満の建設会社の建てた建て売り住宅に住み、のび太くんパパは、忙しくなったため、家庭において、存在感を感じさせなくなっており、これはのび太くんの家だけではなく、ドラえもんの世界では母親や学校の先生に存在感はあるが、父親には、一切存在感がないが、のび太君のパパの総資産は1億から1億5千万円位の準富裕層と言える。
 これは、ドラえもんの中の社会は非常に狭く、母親は学校の教育には気を使うが、のび太君の学校教育以外にはほぼ無頓着であり、のび太君は、子供同士の世界の中で生活している。家庭崩壊が、ドラえもんののび太君の世界から見えてくる。
 この初期家庭崩壊を生んだのが、のび太君のパパ、すなわち戦争末期に小学校に入学する、1939年ないしは1940年生まれの都市部(足立エリア)である。
 このため、のび太君の同世代が中学校に入り、犯罪行為を行い、警察に補導されたとき、両親の”家の子に限って”という、子供の教育以外に一切無関心な親が多数出てくる。
 この両親の子供に対する無関心と、多大いなる関心の2種に分かれるが、この多大なる関心とは、子供の両親のロボット化である。
 しかし、これは本来、対人距離感の喪失の結果発生した問題である。どちらも本質的には子供にとっては、両親の喪失である。
 この父親喪失のため、作品の中では、しずかちゃんはのび太くんと結婚するように描かれているが、現実的にはしずかちゃんは同年齢ののび太くんと結婚せず、父親不在による父親探しというファザーコンプレックスのため、将来、父親とほぼ同年齢の男性と不倫関係になり、略奪婚に走るか、自分よりかなり年上の男性を伴侶に選択する可能性が高く、のび太君と婚姻関係を結ぶ可能性はホボゼロとなる。
 この後、田中角栄による日本列島改造論が行われ、地価だけが急上昇し、その後郊外へと住む人たちが増えていくが、ドラえもんを見て分かるとおり、こののび太君の時代から日本の少子化は始まった。
 ここで、再度両親と子供の距離感を持つ親が出てくる。
 これがけらえいこの”あたしんち”である。
 このけらえいこのあたしんちの両親は、昭和10年以前に生を受け、戦前同様、同じ村落エリア内同士で結婚し、その後都市部(横浜市)に出ているため、ドラえもんで見られた、崩壊した家庭ではなく、戦前のごく普通の家庭を築いており、みかんやゆず彦は、のび太君より後にうまれなが、のび太君に見られた家庭崩壊があたしんちには見られない。これは、のび太君の両親が都市部にいたのに対し、あたしんちの両親が農村部にいたことが、この2つの家庭を分けることになった。
 社会価値の崩壊は、農村部より都市部の方が社会価値の変動の影響を受けたためと考えられる。
 波平氏とあたしんちの父親は、家庭と会社では家庭に重きが置かれているが、ますおさんやのび太君のパパでは、会社に重きが置かれている。
 このため、波平氏に見られる地域の社会性が、ますおさんには見ることができない。

 列島改造論以降に住居を求めた人たちの頃、兄弟は4から5人いるが、その人の子供は1人ないし2人しか存在しないので、列島改造論でスライドした価格は、投資的側面よりも投機的面が強い事になる。
 23区より外の地価は、下落したと言いながら、実の所、投機的価格が強い地域と言える。
 この投機的地域が、多摩・相模・湘南・八王子等の類似地域があたる。
 23区内の地価の投機的エリア自体がかなり高い価格になっており、相続者は、サザエさんで3人の相続人がおり、マスオさん・カツオ・ワカメ(亭主)が、相続人となり、番組を見る限り彼らに、相続税を払うだけの職に就ける可能性はなく、物納されることになる。
 またドラえもんののび太君も、当然の事ながら物納を選択することになり、23区内で大がかりな物納エリアが出てくることにより、東京の地価の投機的部分が下落するため、多摩・相模・湘南・八王子エリアで一戸建てを建てた人たちの大幅な投機的価格の下落が発生する。
 このため、列島改造論以降に住宅を求めた65歳未満の人々は65歳以上の、現在のように資産を当てにした生活設計は作られない。
 また、これらの地域に住む人たちの建てた住宅は、波平氏が建てた住宅違い、耐久年数に大幅な開きが存在する。
 波平氏の頃の住宅は60年以上の耐久性があるのに対し、のび太君のパパ以降の住宅の耐久年数は40年未満であり、また列島改造論以降の住宅の多くは平野部に建てられず、利便性にかなり難があり、個別での販売も厳しく、足腰が弱る年齢(60歳以上)になると、外への外出がかなり難しいことになり、住宅内に閉じこもる自体が発生するが、これはこの住宅を求めた時期に十二分に分かっていた事なので、自業自得の自体である。
 また、購入する自分達の兄弟は4人から5人であるのに対して、自分達は、1人ないし2人子供しかいないので、自分達の子供が住宅を求める段階になると、住宅需要は大幅に低下するため、のび太君のパパまでは、レバレッジがかかっており、投機は上昇に転じているが、自分達が老人になったおりには、レバレッジ部分がなくなり、尚且つ自分達が購入したエリアが大幅に在庫化するため、住宅ローンとして支払った全額が、雑種地としての土地であり、その土地は自分達が求めた30坪程度ではなく、最低取引単位が100坪となり、1坪数万円程度となり、自分達が売りたいときは、全く売れないか、大幅に価格を低下した価格でないと販売できず、3000万円で購入したものが、数十年後100万円以下になることは、中学1年生の一次関数が理解できれば、この問題点は理解できる事でもあるので、団塊の世代と書いてバカと読むべきである。
 この一次関数を使用する問題と書いて、神様の解く問題というレベルの知性の集団が団塊の世代である。
 このため、他の一次関数が神の知恵的な話は全て理解できない。年金・介護保険も全て、団塊の世代全員が一次関数が神の知恵の結や果発生した諸問題である。
 そして、政府関係者も組織内の団塊の世代を見ていれば、団塊の世代と書いて集団的知的障害集団であることは、十二分に分かるため、団塊の世代とそのジュニアをゴミ箱として、制度を設計したと言える。
 父や母にとって神の知恵であることは、子供にとっても神の知恵である。
 また、これらのバカエリアに居住する1940年から1955年位に生まれた女性が90年代に流行語になったオバタリアン(サザエさんは、ふねさんが、サザエさんのオバタリアン的暴走の防波堤になっている)である。このオバタリアンの亭主や子供はごく普通の人に書かれていたが、現在話題の暴走老人こそ、オバタリアンの亭主(ますおさん・のび太君のパパ)である。
 暴走老人は、それまで社会的しがらみがあり、オバタリアン亭主的要素を出してこなかったが、定年を期に妻と同様の社会性を発揮した結果、暴走老人として、世に出てきたのである。
 このオバタリアンを母に持ち、暴走老人を父に持つのがモンスターペアレンツ(たらちゃん)である。
 そうするとモンスターペアレンツとは素晴らしい父と母を持つ、素晴らしい子供達と言える。
 しかし、この後にスーパーオバタリアンたる団塊女性とハイパー暴走老人たる団塊男性の子供が現在結婚と出産を行い、早い人はもう小学校に子供が入学しているのである。
 このスーパーハイパワーモンスターペアレンツたる団塊ジュニアは、中学生で葬式ごっこという陰惨たるいじめを行い、高校生になるとレイプした女子高生をコンクリート積めにし、大学生では、集団レイプを行い、社会にでては、気にいらない事がおこると、歩行者天国で金属バットを振り回したり、歩道橋から歩行者から乳児を奪い、両親の前で歩道橋から道路へ叩き投げたりし、結婚した後、夫をバラバラ殺人したり、育児放棄を行い幼児を衰弱しさせた、モンスターペアレンツ中のモンスターペアレンツたる団塊ジュニアの孫が小学校に入るのである。
 このハイパワーモンスターペアレンツの子供は、母親が10代で援助交際(売春)を行っているため、子供は小学校で売春活動を始める可能性が高いため、モンスターペアレンツの子供が入学するエリアでは、遅くても小学校2年生になれば、コンドームの使用方法とエイズ等性病に関する教育が必要であり、学校は遅くても小学4年生以上で性病の検査を実施すべきである。
 また、学校には銃器等で武装した警察官を最低1人配置し、この子供が祖父母・両親の様に簡単に殺人を行うことを防ぐべきである。
 もし、それらの対策を怠る場合、小学校での殺人は、日常行為になり、入学次100人程度いた子供は、卒業次には性病や殺されたりし、一桁となる可能性が高い。
 早めの処置が急務である。
 事後処置を行っていれば、たまたま団塊孫と同級生になったばかりに殺される子供をふせぐ事が出来なくなる。

2007年10月 5日 (金)

不可思議な言動〜イラク戦争を正当化する]保守主義者

 イラク戦争を正当化する保守主義者ほど、いびつな思考の持ち主は、存在しない。
 何故ならば、そもそも、このイラク戦争は、テロとは一切無関係に、アメリカは湾岸戦争と言うより、”砂漠の嵐”作戦にボロ負けしたから、第2次”砂漠の嵐”作戦を敢行した。
 湾岸戦争と日中戦争から太平洋戦争への過程は相似関係にある。

           湾岸戦争    日中から太平洋
侵略期      クエート侵攻     日中戦争
国際干渉期   国連決議       ハルノート
祖国防衛期   砂漠の嵐作戦    太平洋戦争

 この関係から言えば、日本は、アメリカが東京の土を踏んでいるので、祖国防衛戦争に負けたが、イラクは、バグダッドの土を砂漠の嵐作戦そのものは、アメリカの敗戦に終わった戦争と言える。
 このため、アメリカとしては、第2次砂漠の嵐作戦が必要となり、第2次砂漠の嵐作戦の口実として、テロとの戦いを理由とした。
 故に、砂漠の嵐作戦が実施された直後にアメリカはバグダッド侵攻は出来ないことが、分かるため、開戦直後に再度アメリカはバグダッド侵攻作戦を数年後実施されることは、確実に予測される事態であった。
 では、第1次砂漠の嵐作戦とは何かと言えば、ガルフエアーショー以外の何者でもないものである。
 そもそも、日本の保守主義者は、太平洋戦争は自衛戦争であるという風に定義している。私は自業自得であると考えているが。
 太平洋戦争を自衛戦争と肯定するのならば、他国の自衛戦争の大儀も肯定すべきである。
 もし、この自衛戦争は賛成で、この自衛戦争は反対であるというのならば、その理由がいるが、その理由も存在しない。
 もし、小林よしのり氏のいう様に、アメリカ様がそれを決定すると言うのであれば、下手な理由は作らずに”ご主人様が白いと言っているので白い”という方がかなりまともな行動であるし、靖国もアメリカ様がいう通りの事を行いますで行えばよい。
 私自身はBC級戦犯は、陸軍省・海軍省・外務省の不作為による、犠牲者であると考えている。
 戦前において、日本は捕虜等の取り扱いに関する条約を締結している。そして、締結された条約は、国民に周知させることは、現行憲法も周知させるよう記しているが、戦後も捕虜等に関する条約を締結しながら、国民に対して、周知させずにいる。これは外務省の不作為行為であるが、戦前は戦争の実施は通常に行われ、尚且つ、国民を徴兵出来、各学校において軍事教練を実施しながら、兵隊になって最も大切な捕虜の取り扱いに関する条約を周知させないことは、完璧な不作為な行為であり、BC級戦犯はこの不作為の犠牲者であり、その罪は外務省条約局と陸軍省並びに海軍省の担当部局の罪である。故にBC級戦犯は、この不作為における犠牲者であるため無罪と考えられる。
 A級戦犯に関しては、二二六事件で軍法会議にかけられた主犯格と法的に考えれば、同罪と考えられる。
 即ち、奉勅命令無き、軍隊の使用は軍籍剥奪の上死刑である。

これは、張作霖爆殺事件以降、ほとんど全ての、陸軍幼年学校を出て、歩兵科出の陸軍大学校卒業生全てに引っかかる戦前の旧帝国陸軍の犯罪行為である。

これは、大将にになっても週番兵の様だったといわれ、軍令を守ることに有名だった東条英機氏も同様の事件を起こし、それも大負けしあまりにも、問題がある行為.(下克上とかいって、勝手し放題であった陸軍内でも問題になり、この負けの言い訳を探していた陸軍は、東条英機は精神病を患ったため、この様な行為を行ったと言い訳で逃れようとした、陸軍首脳に対して、東条婦人は陸軍に乗り込ん、わめきチラシ、陸軍首脳は、東条婦人の怒りを.なだめるため、他の理由を探していたら、他の事変が発生したため.うやむやになった話があるほど、陸軍内は、身勝手な作戦を勝手に行い、負けても誰も責任を取らないという、無責任集団化しており、その頂点に東条英機氏とその一族がいた。
 この様に靖国に祭られている戦犯者を区別し、別の施設を作る。
 但し、新施設は、軍の戦死者だけではなく、警察や消防の殉職者や国家の発展維持に功績のあった、文化勲章受賞者や企業の創業者や有能な経営者等を含めて功績を讃える施設として新設する。
 国家として、社会の安寧のため、犯人逮捕や危険にあった一般国民を守ったり、消火活動のため死亡した警察官や消防官の功績を讃え追悼する施設が現在存在しないため、新たな施設を作り、追悼を実施すると言う行為であるならば、靖国に変わる施設ではなく、国家に功績のある施設という建前ならば、保守論者も左派系論者も否定せず、新施設の建設は可能になると考えている。

2007年10月 4日 (木)

07年10月1日気がつけばEU基準~相対的評価基準が絶対的評価基準に変貌し、神話化し崩壊するまで

 07年10月1日付けの日本経済新聞の”気がつけばEU基準”は、非常に示唆に富んだ記事である。
 これが、世界的に競争力のある一流企業とダメ会社を完璧に分ける境目である。
 70年代は、日本は衣食住の安全基準は世界的に高かった、これは、あくまでも相対的な評価であって、絶対的評価でも永続的評価ではない。
 あくまでも評価は相対的であるが、その専門家やコンサルタント(評論家・ジャーナリストを含む)は、本来相対的評価を絶対評価若しくは永続的評価と思い込む悪癖が存在する。
 特にテレビ・小説・マンガなどは、本来相対的評価であるモノを絶対的評価や永続的評価にして、物語を作っていく。
 その物語は、挑戦者は、絶対的評価基準を追い越す事を目的としている。
 例えば、”美味しいぼ”の海原雄三は常に絶対評価基準として描かれ、主人公の山岡は、この絶対的評価基準である海原を追い越す事を目的としている。
 しかし、本来は海原は、絶対基準ではなく相対的基準である。実世界では海原を追い越す存在は山岡ではなく、他者であったり、海原自身が、自身の奢りにより、ダメになっていくケースがほとんど全てである。
 この原作者は最初の頃は、食は三代なる、モノを否定していたが、ストーリー全体では、味覚は遺伝し、才能のある人の子は、絶大なる才能を持つ、という考え方になっている。
 これは、テレビでも行われ、三ツ星シェフは永遠の三ツ星シェフとして描かれている。
 高級レストランは永遠の高級レストランとして描かれているが、世の中その様なことはない。
 常に他者が追い上げを計ったり、最大級に評価されたモノが評価を奢り、相対的に能力の下落は常に起きる出来事である。
 しかし、本人とコンサルタントは、常に昔の名前で出ているのである。
 この本来相対的評価が内部若しくは、この評価を元にコンサルタント業務を行うもの達が、時間がさほど立たない内に、絶対的評価に変貌させ、ある種神話かさせることが大いなる疑問であった。
 これは、他のブログで述べているとおり、状況認識判断の誤りである。
 一つの原因は伝統主義にある。
 一般に伝統主義とは、古いモノを守ると言うことを意味する。しかし、通常言われる伝統主義とは、良い古い伝統は守り、悪い伝統を正すと考えられているが、社会学的には、正しかろうと悪かろうと古いものを守ると言う意味であり、この精神が欧州の中世を作り出し、アジアでは20世紀初頭まで、中国を中心とする儒教(朱子学)的価値観により、停滞し、近代欧州では、”中国の近代は古代にあり”という時代認識である。
 近代資本主義は伝統主義を問題視する。
 近代資本主義にとって最も大切な観念はイノベーションである。
 イノベーションのみが、近代資本主義を発展し維持させる。ダメ会社的要素たる伝統主義は、停滞する事になり、停滞はその会社においては、現状維持であり、予算の達成がなされた状態であるが、他社から見れば衰退以外の何者でもない。
 常に外的な相対的評価基準は、内部において、絶対的評価基準に常に変貌する。しかし、本来は相対的評価基準のため、他社の追随や自己の怠惰により、評価基準をさげ、周りや自分達が評価基準を下げたことに気づいたとしても多くの場合手遅れになる。
 これは、少し前にコーチングのコンサルタントを行われている方のお話をお伺いした時、少し疑問に思ったことを考えている。
 その話は5っ星ホテルのリッツカールトンでの話である。
 東京で宿泊したおり、烏龍茶が好きだと話したら、韓国で止まったときは、烏龍茶が用意されており、ロサンゼルスで止まったおり、烏龍茶に砂糖が入っている話をされた。
 この話を聞いたおり、私は砂糖の入るお茶という違和感だけが残ったが、その後で、日本以外では、外で購入するお茶は糖分が入っていることを知った。
 例えば、ポッカは東南アジアで蜂蜜入り緑茶を7ー11で販売していることを知った。
 こうなると砂糖入り烏龍茶はサービスに関する事に関して、砂糖を入れて出すのか、砂糖を入れずに出すのかはサービスの根幹に関わる話となる。
 なぜならば、リッツカールトンを利用する客は世界中を飛び回っている人たちである。
 日本人であろうと、他の国で味わった砂糖入りお茶を気に入り、日本でも砂糖のあるなしの確認は必要になる。
 東京で砂糖入り烏龍茶を提供若しくは確認を行わなかったことは、リッツカールトン東京の怠慢であるし、韓国でもロサンゼルスもサービスに関する奢りのため、この様なサービスの可能性がある。
 若しくは日本を除く国々では、砂糖入り烏龍茶が、多数好まれるため、ロサンゼルスでは当然砂糖入り烏龍茶を提供する。とすると、どちらにしても東京・韓国のサービスは怠慢以外の何者でもない。
 この後、伊藤園がニューヨークのアンテナ店で砂糖の入らないお茶を提供し、昔は無糖のお茶を誰が飲むのかとバカにされていたが、最近では、アメリカの健康ブームや日本食ブームにより、ニューヨークでも無糖のお茶が好まれて飲まれているという、記事を読むと俄然話は変わってくる。
 現在アメリカでは、自己の体重のコントロールの出来ない人は、あらゆる管理能力に欠けていると判断され、職の存立の可否に関わる課題である。
 リッツカールトンに泊まる、欧米の人たちは、管理能力に優れた人たちであるし、これはアジア人でも変わらない、となると、お茶に砂糖の入るか入らないかは、大事な課題にも関わらず、リッツカールトン内では、完璧に無視されている。
 何故ならば、我々は普段、砂糖を入れないことが普通の日本茶や中国茶に砂糖やミルクを入れるかどうかは聞かないが、コーヒーや紅茶では例外無く、砂糖とミルクをいれるかどうか尋ねるが、サービスが本業のホテルが、それも世界最高のホテルと自画自賛しているホテルが、尋ねない事自体が、異常行動である。
 これは、リッツカールトンの全てにおいて、相対的評価基準であったものが、絶対的評価基準に変わり、神話化した、この砂糖の入った烏龍茶の話をした、人にこの疑問を伝えると、リッツカールトンは、マルコム賞を取ったホテルであると言った。
 これは、私に砂糖入りのお茶の話をしてくれた人の中で、本来相対的評価基準である、マルコム賞が、絶対的評価基準に変更され、ついにはリッツカールトンという神話の信奉者となっている。
 これは、この砂糖入り烏龍茶の話をしてくれた人だけではなく、リッツカールトン内において、5っ星ホテルであるとか、マルコム賞を取ったことが奢りになり、ましてや日本法人の社長がリッツカールトンのサービスは凄いと言ったりするのは、どうかと考えられる。
 これは、リッツカールトンの経営幹部を含めて、神話に縋った状態である。
 神話は常に崩壊する。
 神話の崩壊に気付いたときは、取り返しが付かない自体になっている。
 第三者や客がリッツカールトンのサービスは凄いというのなら、話はわかるが、ホテル幹部が自分のホテルのサービスは凄いというのは、完璧な自画自賛の自己肥大である。
 これは、最近のトヨタ関係者の書籍も同様である。
 最近のベンチャー企業の経営者たちの書籍にも同様の臭いが漂っている。
 ホリエモンは、一日数百通のメールを処理していると自慢していたが、結局の所、数百通のメールは一切処理が出来ず、宮内氏たちの楽しい玩具であったことが、明らかになったし、グッドウィルも同様である。
 特に、日本人は比較文化論や比較文明論の著作訓練を一切受けていないため、専門家でもかなり危ういことがある。

2007年10月 1日 (月)

国語力と精度 教養は時代と共に変わる

 国語力とは、相手の伝える事を理解する力と相手に理解できるよう伝える力である。
 現在の小学校低学年で行われている国語のテストは、国語力の確認は最後の最後に出てくる文章全体の意味を問う一門だけであとはすべてその人の国語力の精度を問う問題で、現在は国語力を算数の文章題と言う形で、国語力の確認が行われており、非常に問題であることは、前回述べたと思うが、今回は前の時には、精度は、漢字の読み書きと文章を読んだかどうかの確認を国語力の精度として、取り上げていたが、もう一つの大切な事を述べることを忘れていたので、今回述べることにする。
 我々が、本や色々と勉強することは、国語力の精度を上げるために重要な点である。この勉強して身につける教養は、相手の理解力を上げたり、自分の述べることを伝わりやすくするために、大切な力であるが、この教養は時代と共にかなり変化が見られ、現在は、ある意味において、最も教養の劣悪な時代である。
 たとえば、織田信長の浅井親子の頭蓋骨を金箔で張り、器を作った話は、現在では多くの評論家達が、信長の残虐性を示す行為としているが、これは、司馬遷の史記のエピソードである。
 現代の知識では、残虐性を意味し、信長の時代では、信長の高い教養性が見て取れる。
 これは、現在では小説やテレビドラマの信長は、うつけ時代から始まるが、幼少期の司馬遷や孫子や能などを学んでいた信長は描かれていないことが主たる原因と考えられる。
 何故信長が無教養と思われている原因は、彼が、当時の教養人(風流人)が行った連歌を行わなかったことが最大の原因と思われる。
 また、無教養と思われている坂本竜馬も十八史略をそらんじているし、謡曲も基礎的知識として入っている。
 現在十八史略や能を知っていれば、教養があることになるが、テレビドラマと違い、日本語には江戸時代共通語としての日本語がなかった。
 この時、薩摩弁をしゃべる人と東北弁をしゃべる人の会話は、本来は成り立たないが、この時、共通語の役割をしたのが謡曲である。
 しかし、謡曲だけでは小難しい話は意味が通じないので、そこで使用されたのが、十八史略を例えに使用すると言う行為である。
 江戸幕末の武士はこれを知らなければ会話自体が出来ないのである。ついでに幕末には、かなり頭の悪い人と思われている近藤勇でさえ読んでいた頼山陽の日本外史が加わるのである。
 現在は、どんなバカでも自分の歴史は知っている、賢い人は他人の歴史さえ知っている、故に賢者である。そして、現在の普通の日本人は自分の歴史さえ知らない。と言われている。
 バカ以下のバカと言える現在の日本人より遙かに幕末の人たちは、教養の高い人たちであった。
 では、何故織田信長や坂本竜馬は、無教養と言われたのか。
 この2人に共通して言えることは2人とも、俳諧を行っていないのである。
 日本は長い時代、俳諧が教養の基準である。
 太田どうかんは、俳諧に関するエピソードが残っている位の人であるが、教養人と思われているのは、俳諧を行ったからである。
 特に江戸時代は、かなりの田舎に住んでいても、歌を読めば、全国に知られている。
 松尾芭蕉は東北地方を俳諧を行うことで回ることが出来る。
 武士は漢詩を作ることは絶対である、辞世の句を詠まなければならないから・・・
 日本は、長い間もののあわれを歌に詠めることが重要な教養であった。だから、現在も歌会初めなるものが、重要行事になっている。
 織田信長は歌を詠まなかったばかりばかりで、無教養と思われている。
 また、彼は、間違いなく戦国時代一番の孫子の理解者と言って良く、武田信玄などは典型的な”孫子読みの孫子知らず”である。
 教養は時代と共に変遷する。
 少し前まで、時代考証の付いているNHKでも、江戸中期以前の日本酒は清酒を使用していた。最近では江戸中期以前は、白く濁った酒を使用している。しかし、民法では、未だに清酒を使用している。
 これは、少し前までは日本人には酒に関する教養が一切存在しなかった。これは”夏子の酒”の影響力かもしれない。
 現在の清酒は、江戸末の大阪で、製法が発見された。
 それ以前は、白く濁った酒が一般的であった。
 この様な例は多数見受けられる。
 戦前多数の小学校にあった二宮金次郎の像は現在ではほとんど見受けられないが、50年安保・60年安保・学生運動の頃、反政府側の知識人が”二宮金次郎は泥棒である。何故なら彼は貧乏なのに薪を背負っている、これは盗んだ薪である”と述べた。
 この知識人は里山を知らなかったのである。
 この様な暴論を正しい知識と考えたのが、学生運動の参加者の知的レベルでもある。
 この様な暴論が多数出ている頃に言われたのが”団塊の世代”であるが、これを述べた評論家は定年後こそ、団塊の世代の意味がでると言っているが、これは、ある意味60歳まで水に顔を付けるのも嫌がった人が、会社を辞めた瞬間から1000km泳げると言っているような話である。
 この時代最も知的レベルの低いのが東大卒業者である。
 東大の学生運動とは、東大の権威を否定しながら、東大の権威を肯定する運動である。
 東大学生運動とは、精神分裂気味の運動とも言える。
 これは、07年9月29日付け日刊ゲンダイ3面に出ている”舛添「不公平な番組」に出演”の記事にあるように、数日前に不公平と言った全く同じ行為を平然と出来る行為は、学生時代の運動と全く同様の行為である。
 三歩歩くと全て忘れる鶏型頭脳を的行為であるが、彼だけではなく、同世代の与野党議員も同様な行為を行っているし、官僚の不祥事もほぼ同世代で頻繁に起こしている。
 50年安保60年安保や学生運動は、運動の動きから言えば、中国の文革と似ている。しかし、中国の文革が、最初から最後まで文明や都市の否定であるのに対して、日本の学生運動は無意識ながら、文革と同じ行為である。
 しかし、多数の学生運動の参加者は、午前中に都市・文明・文化の否定を命がけで行い、午後には都市・文明・文化を謳歌するという集団精神分裂運動とも言える。
 この集団精神異常者集団の中で唯一まともな行為を行ったのは加藤登喜子の亭主である。
 彼は、刑務所から出ていったあと、村に帰り、非文明的な有機農業を始めるのだが、彼以外の集団的精神異常者集団には理解できなかったが(精神異常者なので理解できるはずもない)、学生運動の目的が文革と類似の運動のため、学生運動の結果有機農業を始めることは、全く正しい行動である。学生運動が、中国の文革と同一行動であるので、指導者たる加藤登喜子の亭主は、自主的下方を行った。
 話は戻るが、なぜ、二宮金次郎の像が置かれたのかと言えば、これは戦前の日本がアメリカの教育を参考にした結果である。
 二宮金次郎とは、アメリカが参考にすべき人物として上げていた、ベンジャミン・フランクリン(禁欲的で勤勉な良きプロテスタント) と似た行動を行った人物が二宮金次郎であったため、彼の行動を称える行為が、像を全国の小学校におく活動であった。
 マックス・ウェーバーのいう資本主義の精神のアメリカ版がベンジャミン・フランクリンならば、日本の資本主義の精神を体現する人物が二宮金次郎であった。
 現在の経済学が考える経済人のモデルは、ロビンソン・クルーソーである。
 教養は時代によって変化する、それもかなり劇的に変化する。
 その時代の教養が、どこにあるのかで、対象人物が無教養であるかに変化が見られる。
 それは、現代において生活している人も同様である。
 ギャルにはギャルの教養がある。
 トヨタにはトヨタの教養がある。
 ダメ組織にはダメ組織の教養がある。
 これは、現在細かく分かれている。
 故に社会全体を覆う教養は、現在は存在しない。

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